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7月8日(土)夜にブックセラーAMUS(大阪・西天満)で行われたシモーヌ深雪レクチャー+ライブ「シモーヌ流現代美術のたしなみ方」。

会場は70、80名くらいの観客でギッシリ。9割が20〜30代の女性。
開演前の会話の端々から、かなり「とがった」客層であることがうかがえる。
定刻より10分ほど遅れてシモーヌ登場。目が綺麗な人だ。

レクチャーの部では、昨今の現代美術家が彼(彼女?)の音楽活動の歩みと重ね合わせながら俎上に載せられた。

個人的な親交のなれそめから丁寧に語られるので、少しもどかしい。

長い思い出話の最後にさりげなく付け加えられる短いコメントの方が断然面白かった。

そうした一種の羞恥もこの人の魅力なのだろう。

尤も、個人史を語るのに、舞台下手のメモに目を走らせながら、というのが残念であった。唄と同じで、内から湧いてくる感興に身を任せてこそ、「語り」も生きてくるはずだ。

ライブの方は、アコーディオンの生演奏にのせたシャンソンの数々。
シャンソンを聴いていつも想うことは、歌詞(訳語)の生硬さ。
「わたし」「あなた」「彼」など、日本語では滅多に口にしない人称代名詞が頻出するので、違和感が拭いきれない。これは直接にはシモーヌの責任ではないが、意訳するなり新訳を使うなり原語で唄うなりして、「越路吹雪的」オーラを追い払う努力は可能であろう。
トークと唄の声が同じなのが印象的。それだけ「唄」が「語り」になっている証左か。

「闇が好き」と公言するシモーヌ。AMUSの会場は明る過ぎた。照明もさることながら、現代美術を志向する観客の理知が会場の空気を明澄なものにするのである。

それに対してシャンソンは、人間の情念の世界。ドロドロと妖しく、透明度は低い・・・。

音楽と美術の肌合いの違いを図らずも実感出来た一夜であった。


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