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328.
3/11(月)
辻信一著『スロー・イズ・ビューティフル〜遅さとしての文化』

『スロー・イズ・ビューティフル〜遅さとしての文化』(辻信一、2001.9、平凡社)。
《土壌、動植物、地形、気候。めぐり繰り返す季節。太陽、星、月の運行、潮の満ち干。そしてそこに人間たちの思考と行動が意味を、神話や祭や儀礼や踊りや歌として織り込んで行く。人間の共同体はそれぞれ独特の時間をもっている。それぞれの川筋に、それぞれの谷間に、独特の音楽性というものがあって、そこに住む人々を、他の人々から区別している・・・》。

ここに例示されている「独特の時」、「独特の音楽性」らが、本来の「文化」であったはず。無限に「より大きく、より早く、より強い」ことを求める異様なガン細胞的経済社会が出現するまえにはちゃんとあったそれぞれの「文化」。

そこでは、《不文律、道徳、礼儀、神話、長老の威厳に満ちたことば、お婆ちゃんの昔話、人々のふるまいや物腰》によって、自然界と同じような均衡と調節、浄化の力が「文化」として機能してきたのである。

一言で言うと「節度」を社会に組み込むために文化は存在した。いまの「ファースト・ライフ」全盛の社会から見れば、遅さと小ささに価値を与える、とても勇気のある「スロー・ライフ」活動を支えるのが、私たちがそう呼ぶもの、つまり「文化」ではないだろうか。
・・・・
以上は「文化」について作者から学んだ私の草稿の一部である(6月末に発行される雑誌に掲載される予定)。その他、この本の主張については、週末の2つのトークの際にも援用しとても助けてもらった。いろいろ言及したりしたいが、ゆっくりとこの本を噛みしめるのが一番だろう。

そのなかで、「スローネスとしての文化」という、文化人類学者である著者の核となる終章があり、いままでの自分の「文化」概念を変える必要性を感じだし草稿でもその変更をもとにしていま文章を書いているので、ちょっとだけコメントしておきたい。

まず、「なんとか学入門」という書はあるが「出門」というのは聞かないという書き出しから笑ってしまう。卒業制作を担当する専門ゼミの名前は「アーツマネジメント(学)出門」がいいかも知れない。

さて、辻信一はあえて「文化」概念を拡大しないで使おうという。カルチュラル・スタディーズなどにみられるような「文化のグローバル化」への対応(消費文化や情報文化への言及)を行わないのだ。

もちろん「芸術」に限るなんてしない。文化人類学が従来から扱ってきた「文化」、それは「もともと地域的で、特定の生態系の中で育まれた土着的(ヴァナキュラー)なもの」である。

《ある特定のサイズやペースを越えた時から、ある文化を文化としてきた本質的な何かが、失われ、あるいは損なわれる。そんな時に至っては、それを文化と呼ばないことにしよう。ことばを拡張してまで現実に合わせることはせず、本来の「文化」に備わっているはずの「小ささ」と「遅さ」に固執しよう。》

はっきり言ってこれはマニフェストの文章だから、文化についての学問的な記述ではないかも知れない。価値としての文化という擁護論を行っていることは明白だ。

「人の身の丈にふさわしいスピードやペースがあるように、文化にはそれにふさわしい遅さがある。人と自然との関わりや、人と人との関わりには、適正なリズムや緩急というものがあるだろう」。「ぼくは思うのだが、本来、文化とは社会の中にそうした『節度』を組み込むメカニズムないのだろうか」。

ああ。自分のように、文化を最広義(つまり、文化とは「遺伝子によらない人間活動の、すべてにおける情報の蓄積と伝達」)に定義してしまって、「文化」というものを無味乾燥にしてしまうとする戦略と逆だから、いますごく気になっているのだ。

文化政策学部の人にならなければ、昔と同じくそうやって文化を広く定義してあたかも文化を大切にするような素振りをしながら完全に無化し無視することが精神上一番いいやり方(それはまあ「文化庁」との確執という低次元の戦略でもあったが)であった。でもこの大学にいる限り少なくとも、そうはいかなくなった。

思い切って、文化という概念を辻信一氏にならって小ささと遅さで限ることにしてみたいと思う。もちろん、伝統社会では、それが小さいとか遅いとか思われていたわけではないだろう。だから、今への警鐘としての(相対的なアンチテーゼとしての)文化概念だと重々知りながらでも、文化を彼と同じように使ってみようかと考える。

そうすると、「芸術文化」ということばは使えなくなる。いままでの定義では、文化の1つである芸術を指す言葉と同じだから「芸術文化=芸術」としてきた。ところが、文化をこのように限って使うことにするとすっきり「芸術文化」という言葉自体を捨てることができるのだ(理由は、次に述べる意味での「文化芸術」と同義になるから)。

気持ちいいね。

そして、そしてである。いままで気持ち悪がっていた「文化芸術」ということばを積極的に定義できる。つまり文化芸術とは、小ささと遅さをいまでも持っている「文化」に繋がる「芸術」であるとなるのだ。

その逆は「非文化」芸術、つまりグローバル芸術、大量生産と消費に基づく商業的マーケティングに基づく芸術である。それらは芸術でないなどと芸術次元として争うことなく、対象とすべき「文化」ではないとして、文化次元で無視できるということになるわけである。これですっきりと自分なりのスタンスで「“文化芸術”振興の基本」が見据えられる。

そのほか、この本の中では、頑張らないことや、パラリンピックのおかしさなど色々と同感することが書いてある。おいおい援用することになると思う。スロー・シンキングする快感。でも「遅」という漢字をポジティブに使うことは、正直まだ戸惑っている。遅く生きる、遅く行く、という「遅生(き)/遅行(き)=ちいき」を考えつつも。


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