Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Bad Company


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4/26(金)
古厩智之『まぶだち』京都みなみ会館


京都みなみ会館午前中やっている『まぶだち Bad Company』(99分、2000、プロデューサー/仙頭武則、監督脚本/古厩智之)。唐突に終わった印象が強かった『害虫』より、少しのどかな感じで展開する。それはまず時代が20年前ということもあるだろう。映画でも20年後のいまの少年たちの姿がナレーションで語られる。

この時代にはまだ、駄菓子屋におばあさんがかくしゃくと座って居て、万引きする少年にも罪の意識が強く残っている。10万円、20万円とどきりとする可笑しさで駄菓子を売るおばあさんはなかなかの迫力があり、見ている方も前の万引きがばれないかなあとドキドキする。怖いものがバーチャルになってしまわない時代がかつてあったという前提で描かれている。

長野県の北の方の田舎といえど、空き地の存在はすでに懐かしい風景として登場して。監督らの少年時代への郷愁が溢れているように見える。その分、類似の感情がいままでのスクリーンにもたびたび流れたようにも思う。映画上に地元の生徒が大勢出ている。いまでも、長野県は東京や関西と比べて悪さの程度が実にかわいいものだそうだ。

この映画では少年と母親の関係が少なく父親ばかり出てくるし、小林という先生は白衣を着て異常なまでの父権的力を持っていて、少年像を扱っているといってもこんなに男ばかりの映画はやくざ映画以外には珍しいかも知れない。

他方、女生徒の集団が登場する『害虫』には少女の不可解さが自分にはあらわだ。彼女の内面と行動には、到底理解できないという諦めすら私にはあった。他方、『まぶだち』にはそこまで不可解な少年たちがいるわけではない。そういう面では切り口の鋭さやどきりとする映像は『害虫』に比べるとちょっと希薄である。

逆に、ほんとうに少年っておかしくてかわいい動物だと思う。そんな中学生が大学生になるとどれほど変わるのだろうか。そこがブラックボックスのように思う。それはぼくがたまたま二人の娘をもち女子大の教員になったからかも知れない。だって、田舎と言えどあんなえばりくさった教師と(反発しながらも)よくつき合えるなあと思うからだ。

たぶん、あの教室のなかで女子生徒は本気であの小林先生(清水幹生)と向かい合わないまま、ほとんどが優等生(人間)の方に分類されていたのだろうと思う。拍手をしていたりはするが、『害虫』に先立つ20年前の女子中学生の世界が別にきっと動いていたはずだ。

主人公たち3人組の目線で作られた映画だから、彼女たちが混じり合うのは、一瞬でしかない。
それでもその一瞬は、鮮やかでさりげないシーンだった。終わりの方、主人公サダトモが呆然として落とした名札を拾ってそっと近づき、手渡す。そして彼女は自分の席に行き机に顔を伏せる。それだけである。でも彼女の叫びが聞こえてきそうなほど叙情的な放課後の教室だ。

自然の緑が深い。川の映像も多い。ただ、教室や勉強部屋、父親の書斎などの室内や自宅前の何げない映像の方が印象的だったように思う。
たとえば、お父さんが早朝かっこうの巣を定点撮影しているシーン。サダトモがカメラを触ろうとすると、誰でも邪魔されたくないものがあると諭(さと)す。ところがサダトモにはそれがない(ように彼自身は思っている)。タマネギのようにむいてもむいても嘘ばかりしかない。

そのタマネギの気持ちを本心として小林先生に反省文で書いてしまう。それを発表せよという。タマネギの気持ちを持っていることが大切なことなのだと先生は言っているようだ。でも、その先生による決めつけにも反発して自分の作文を川に流す。
同じように親への愛情を誉められたテツヤもそのあと、小林に誉められた作文を川に捨てる。

もともと、サダトモは人に頼られる自分があることでやっとそのタマネギみたいなからっぽさを埋め合わせていた。
でも、テツヤは自分で生活記録を書き反省文を書くことでサダトモに頼ることを卒業していく。あとの二人も校庭を走り切ったり絵を描いて小林に「クズ」から「人間」にしてもらいながら、サダトモから離脱する。

サダトモは「クズ」から「人間」にしてやるという小林に反抗して「クズ」のままでいいといいながら、反省文も川に流したわけだ。
最後に周二だけが、小林のスパルタにも耐えられず反省文も書けず、サダトモに頼ろうとする。声をかけずに飛んでサダトモに見つけてもらおうとする周二をうっとうしく思うサダトモ。仕切ること以外に何かを見つけようとする少年サダトモのそばで、周二だけが取り残される。

周二が技術の時間に自分の手の甲をノミで傷つける。そして、橋の欄干からの跳躍。小林は本当のことを言えと言うがサダトモは周二が足を滑らせたまでだとしか言わない。もう小林が叱ったり誉めたりする道徳教練みたいな世界とは別の世界がサダトモやテツヤには生じている。その新しいステップに周二がどうして一人入っていけなかったか。少なくとも、教育の問題でないことだけは明かである。

映画を観ながら、自分が教員として小林みたいなことを、下手をするとやってしまうかも知れないなと思う、ここまで説得力はないとしても。うちの1回生にアーツ日記を書かせているのも、アーツへの眼差しへのコントロールや水路づけを彼女たちにしたいと無意識に思っているからかも知れない。

大学生の心と向かい合う勇気がないし小林先生のように真の「人間」へ変えようと言うような確固とした自分の信念もないから、いまは中途半端に学生と仲良くやっている。いま中学生に向かい合う先生たちはどうしているのだろうか、と遠い国の世界のことのように想像してみたりする。


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