Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》MAMA-8JIHAN
この春で3年目を迎えた京都芸術センターの事業の中でも、実によく考えられている実験的な企画の1つがこの試演プログラムである。公開試演会と記者会見がセットにあることが多いが、劇評家・ジャーナリストだけで一般のモニターに公開しないことも出来る。(今日も公演後の記者会見があったが、疲れ気味のため失礼した、内容的には新しい発見も多く気になる作品だったけれど。)
さて、劇団八時半『ママ』作・演出:山岡徳貴子。15:42から始まったことはメモったのだが、終わった時刻をメモらなかった。ただ、初めに企画委員の松田正隆さんから約80分間という説明があったので、それぐらいの長さだったことは確かだ。
劇団八時半の代表である鈴江俊郎は俳優に専念し、10/25〜27の公演では彼が今度は作演出をする。劇団に二人の劇作家がいるというのは、劇団の継続的運営という面でもいま注目すべき動きだろうと思う。
無関係かも知れないが、今回の作品ではいままでの山岡徳貴子の思い詰めた世界を描く作品に比べて、相対的ではあるけれど明るく面白い部分が膨らんで見られる。それは鈴江作品にも先行して現れていたとは思うが、劇団全体に視線の複数化がもたらす余裕が生まれてきたのではないだろうか。同質の空気が流れ場面設定も共有する二人ではあるが、複線化の強みは大きい。
自分の大学のセンター事業の話を差し込んで恐縮だが、タフ(関西女性アーティストファイル)の芝居バージョンをするときがいつか来て、もしいままでの山岡作品ならば大学に持っていくのはためらうだろうなあと机上で思っていた(花田明子主宰の劇団三角フラスコが休止してしまったし、どうしようかと)。
新興宗教関連などのテーマなどでは、強く受け止める人が出る一方で理解するきっかけをつかめない人が出そうだったからだ。でも、今回の作品は女性研究的な関心領域が強いうちの文学部のみなさんにも色々と感じてもらえるものだと思う。
たとえば、今回登場する「助産婦」についての議論。「助産婦」は職業のジェンダー的固定化だから「助産士」とかにして男性にも免許を与えるべきだという考え(いまちょうどそんな動きがあると聞いている)と、いやこれは「助『産婦』」なのだからもともと男女ともオーケーだという考えや、そもそも助産婦は産婦につきそう同性の役割と考えるのだとかいう問題を想起できるわけである・・。
まあ、そんな余計な話はおいといて、まず、始まりと終わりの明るい音楽に注目。試演会なので舞台美術はシンプルだが、下手の長い縄(結び目がついている)が垂直に降りてきて、四隅の明かりと対照的で美しい。座敷の真ん中にテーブルがあるだけのステージ。この座敷は共同で女たちが眠りお産をする場所でもある。
照明プランと舞台美術の担当は、役者としても登場する中村美保。舞台監督も女性で東理子。タイトル『ママ』もシンプルにお芝居の入り口を私たちに明らかにしてくれる。つまり、ママになりたい人や、ママになるかどうか迷っている人の物語。
舞台上にいる男性は影が薄い。出産を願う女は、オスとして、種があれば誰もいいとそう感じるのだなあと思わせる設定。つまりは、O型の男ならば誰でもよいと女(子宝に恵まれなかった38歳の曾根崎)から誘われる、酔っぱらって終電を乗り過ごした名前も知らない男。
そんな無名の男と、不倫をしている相手には産んで欲しくないと思っている情けない中年の土井だけがここに登場する男である(どちらも鈴江俊郎が演じている)。
設定は農村の民家。不便だが都会からはまったく隔離されているわけではないぐらいの所。たとえば東京から山梨ぐらいの距離。その家では助産婦が妊婦たちと共同生活をして臨月を迎えていた。ところが、助産婦が入院。助産婦見習いの娘珠美(山岡登紀子)が替わりを務めようとしている。
実は彼女には免許はないのだが、珠美の幼なじみ敬子(中村美保)とやっと子宝に恵まれた曾根崎(大屋さよ)がどちらも大きなお腹で、産むことを前提に自給自足的な労働を分担している。つまり、助産院としてお金を取らないので無免許は問題ないという論理だ。
そこに、若い女性繭(20歳、北村結宇)がやってくる。まだ4ヶ月なので早すぎるのだが、不倫相手土井(41歳)もここで産まれたということがきっかけで、やってくる。やってきたということは産もうということなのだろうが、実は迷っている。仕事をさせられるということも知らなかった。38歳の曾根崎からは、バケツ持ってヒンズースクワットをすれば堕せると言われて、ちょっとしたりもする。
深い不安や葛藤を生きる女たちを描いているけれど、この芝居には複数の希望が存在している。まず、美保にしても曾根崎にしても、旦那は浮気しているようだし、産むことはハッピーとは言えないのだが、次なる生命へと心を未来へ投影していることで生活に張りがある。その生物的事実が第一の要因だろう。
そして、若い繭の自給自足場所への馴化と言ってしまうとシニカルで、ロマン主義文学的に青年の成長過程というと教養的過ぎるのだが、まあ、その中間ぐらいの繭の変化と決心のプロセスが、私には希望と感じられるのである。
繭の情けない男である土井にも、曾根崎の出産につき合うことで、意識の変化が生まれる。実は、婿養子の土井は養子先の実家が倒産して、不倫相手に子どもを作る経済的余裕を失っていた(つまり堕胎を繭にお願いするいい口実だった)のだが。
可笑しい部分は特に曾根崎の言動に集中している。「リメンバー・・・ザ・テンコウ」が口癖で、手品の練習を繰り返しやっているのだが、その手の恰好がたどたどしく妖しい。O型の男の精子を漁る姿が総ラメでまた妖しい。
無名の男も、逃げたりついていったり、不確かなありようもまた可笑しい。
マユピョンと呼ぶ土井に答える繭、そんな土井の睦み合いや、繭からおばさんと呼ばれる二人、他方繭は二人からおねえさんと呼ばれるなど、敬子や曾根崎と繭との争いごともどこか可笑しさの方が勝っていると思った。これからまだこの作品は完成までに変わるかも知れないが。
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