Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》La traduction
du paysage
京都駅から東寺に向かって10分ぐらい歩いたところにあるギャラリーそわか、田尻麻里子『風景の翻訳 La traduction du paysage』を楽しむ。
そこで彼女と立命館大学でいま教えていることなどをしゃべりながら、今日の授業でこの展覧会を紹介すればよかったと悔やむ。それが、インスタレーションとしての映像作品の面白さを実によく紹介する総合的な個展だからだし、微細なものから世界を眺める視点というアーティストならではの発想が興味深いと感じると思うからだ。
8日にはYuko Nexus6と田尻麻里子とによる「MicroLive」(音と映像を使ったパフォーマンス)もあったという。
そわか0の大きな部屋にフラットなモニターが置かれている。「架空の風景をつくる」。緑の小さなスコップ5つ。3つと2つに分かれて天井から吊されている。それを揺らしてみる。と思いがけない金属音がした。映像の音の秘密がわかったりもするのだ。
あと、「役にたたない緑の板」を転がせてくださいと指示があるので、ビデオを観ながら転がせていると、また思いがけない利用法が映し出される。
彼女の最近のお気に入り?は「卵の殻」である。半円状の殻が床に並べられていく。白いのもあれば黄色いもの、褐色のものもある。床すれすれに映像は撮されるので、結構堂々と半分に割れた卵の殻が立っている。
そこに大きな素足がやってきた。はじめは大股で跨ぐから、あまりそれらをつぶしたりはしない。
そのうちに、ぐちゃっとつぶしていく。なぜだか、もう一つ、少し黒い素足も登場。4本の脚が踏みつぶすとあっという間に殻はこなごなになる。そうなれば、それは殻の破片であるとともに、もろくて風で飛ばされやすいただのゴミでもある。実際にそわかの板目に殻の破片が入り込んで残っていた。
奥のそわか1「monument」。これはこの前そわかの2階で見たビデオの一部であることが分かる。でも今回の映像は、卵の殻がとても巨大でスローモーなコマ送りになっている。素足も大きく殻の上で止まってしまっているぐらいにゆっくり。二重に「特撮」されたビデオである。海岸の人たちの無関係な動きと殻つぶしとの対比、コントラストが際立つ。
卵の殻という日常に生じるゴミ。それらを立てるということで美術が起動する。それを足で踏むと深層心理的な何らかの視聴者による解釈が生まれる。
その個々の解釈や強い象徴性にできるだけ著者や評論家などの権威的な解説を無防備につけない。ただただ、その息づかいを大切に包み訪れた人たちに開くのがアーツ環境づくりとしてのギャラリー空間の醍醐味なんだと改めて思う。
2階の「記憶」というビデオ(1992年撮影)などは特にそうだ。東南アジアらしい場所で裸足の褐色の少年がサッカー遊びをしている。ただそれだけの映像。そこがフィリピンなのかインドネシアなのかとかは書かれていないし、場所も何やら公共的な建物のそばというぐらい。
ときおり大人の声がして、鶏を持つ大人たちが話している。闘鶏でもするのだろうか。これだけなのに、いまのワールドサッカーのいたれりつくせりの映像や解説、インタビューとの比較をついしてしまう。
ここにはこのサッカーを解説しようとする大人はもちろんいないし、ゲームの休憩に虎視眈々と入り込むコマーシャルフィルムのあやかり根性もない。ただ遊びに夢中の子どもたちと別の世界に浸っている大人たち。作者は何のやらせもなしに撮っているだけだ。
さらに2階の奥にはパソコンによるドローイングや写真が置いてある。繊細な戦。
あと、地下の暗い中での船の映像もなかなかに時間を意識させてくれる。
布団のような波が動く。海の訪問者が下手に去っていく。
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