Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Out of the BLUE


vol.357.
6/14(金)
清水啓司『Out of the BLUE』シアトリカル應典院とブルーのユニフォーム

シアトリカル應典院で観たのは、清水啓司の『Out of the BLUE』19:05〜20:07。60分間の完全ソロだ。清水によると、標題は「青ざめた世界の外へ」というニュアンスらしい。混迷する時代の闇がBLUEという英語単語の意味だから。でも熟語としては「出し抜けに」という固定した意味もあるらしい。

いま行われているサッカーはどちらが勝つにせよコンディションが悪い中での試合が多すぎる。ほんとにここでダンスを観ていると、ブルー一色(日本のユニフォームにあやかって町中までユニフォーム色)になっている疑似イベントの(ヴァーチャルな)世界の外に行けてそれだけで嬉しい(これは私の牽強付会なのだけれど)。

應典院への道すがら、大阪の街に汚れたユニホームの観客たちが散見される。みんな疲れた顔をしていて2-0と話しているからひょっとしたら予選敗退かと思ったりしたぐらいだ。
夜に小泉首相が日本が勝ってじんと涙が出ますねというコメントをしているのを観ると、彼が特攻隊の犠牲を思ってじんとして(多分)靖国神社にお詣りしている様がオーバーラップする。スポーツの国民文化政策については、きちんと議論する必要がある。

つまり、日本を同一ユニフォームに着替えさせるための誇りづくりをスポーツで行い、たとえば(個人情報保護という名目で)批評の自由を抑制し国際軍事貢献をスムーズにしていく精神誘導プロパガンダ動員戦略についての政策とメディアについての研究のことである。

アーツの分野で言えば文化庁(だけではなくほとんどの組織もそうだ)が大好きな「世界への芸術発信」の持つ意味の冷静な分析ということになる(漫画やアニメ、ゲームソフトの価値なんて世界を征服しているからという外側しか観ていないように思うし)。小沢征爾の正月棒振りとかジブリアニメが賞を取ったとかそんな感じか。サッカーみたいな文化芸術振興をしようという動きがまた国会などで出るかなあ思って身体に悪寒が走る。

ダンスのはなしを書かなくちゃ。
初めにすごいと思ったのは照明(岩村原太)だった。
上手の通路を開けているので、表の道路交通のさまが分割されたガラス(医院によくある分厚いガラスで外が分割されるために透けて見えなくなるタイプのもの)に映っている。初めを暗転にしないし、客席を目一杯照らしてもあざとくないのに感心する。

照明を吊していたバトンがあるとき揺れているのをみて、こんな演出ってどうするのだろうかと思うがすぐに揺れは収まった。重低音で震えたのでもないようなので、ある信号のようなものだったのだろうか。床にテレビモニターみたいな明かりが浮かんで何も映らずに、ただ、テレビのノイズ音ががーっとなる。音と照明が一致する。

音(加藤陽一郎)は全体にシンプルで気持ちよく、特に後半、客席を揺らしてUSJみたいだった(なんて、USJに行くことはまずなく、そこが廃止になったりすれば廃墟を見に行くぐらいだろうからいい加減な感想だが)。

ただ、冒頭の救急車(消防車?)の音が上手から下手へドップラー効果を微かに感じさせながら流れたのが、音響なのかたまたまの外の道路なのかはよく分からなかった。

清水啓司の動きでは特に「手」の扱いに注目した。手足の長さが應典院のタッパの高さとうまく呼応している。

手をさしのべて、その手をふと眺める。そのときに腕の緊張がすっとゆるんで自然に腕が曲がっていく。それが顔にぶつかるかと思いきや、顔を通り越して頭の後ろに向かって消失する。そんな最小限の動きに気持ちが揺すぶられる。

後半の清水啓司の腕の広がりから頭上にあげる印象的な動きを観ていると、隠されていて少し影が見える阿弥陀仏の姿と自然と比較することになる。

観ているときふと実感したのだが、彼は手をさしのべながら、客席やその向こうの世間と遠く離れてしまっている自分のことをとても感じているのではないか。

私たちも光に目一杯照らされ、重低音で揺らされているけれど、清水だけが向こうに行ってしまう不安な感じがずっとしていた。だから、きっと最後は暗くならない上手の通路へと彼が去っていくとばかり思っていた。これは自分の思い越しだった。

ところが、彼は最後に暗闇でうずくまったまま、外へは出かけなかったのだ。このラストまでいくと、いままでに見て思ったことがまた違うもの感じられていく。とりあえず、ほっとした、そういうOUTで。よく理由が分からないけれど。


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