Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》silk-sand-1
2つ、お芝居を見た。見ているうちに「演劇におけるプロフェッショナルとアマチュア」ということについて考えさせられてしまった。
マチネで見たのはこれから片づけをして岐阜に戻る劇団ジャブジャブサーキットの新作『しるくさんど』(第37回公演)で、彼ら彼女らは、お芝居専業で生活の糧をすべてまかなっていないけれど、演劇することが「仕事」であることに充分自覚的であるからプロフェッショナルと呼べる集団である。ただ、作・演出のはせひろいちさんだけは演劇の比重が高く第1種兼業か専業演劇家に近い状態かも知れない。
AI・HALLの共催公演。AI・HALLの自主事業ではないから、観客(100名に達していない)からの収入で経費をやりくりしているのだろう。昔の戯曲も売っていて私も買って電車に乗っている間夢中になって読んだが、これは大きな収入ではない(ただ、プロであることの一つの証拠となるだろう、戯曲を公表販売できるということにおいて)。
伊丹アイホールで公演が打てるということ、中部圏という地域の劇団でありつつ東京と関西に固定したファンがいることももちろん重要なプロである要素だと思う。地元受け、身内受けとは違うところで演劇を社会に投げかけるミッションを公演という形で実現しているからだ。
一方、ソワレで京大西部講堂において見たのは、学生たちによる演劇公演企画『全地蔵洗濯機』(脚本・演出・音響/北島淳)という1時間半ほどのお芝居だった。
京大の公認劇団である劇団ケッペキの役者たちや私がいま教えている立命館大学産業社会学部高橋良明君(劇団星衛)らが集まって制作したものだ。彼らはもちろんクラブ活動ということにおいて真剣であるけれどもちろんアマチュア(やっていることを愛する人という意味)としてやっている。稽古場にしても公演場所にしても学生であることの特権をいまのうちは謳歌しているというわけである。
だけれど、彼ら彼女らが卒業してそれでも芝居を続けることを選択すれば、いつまでもこうしてはいられないという気持ちになるはずで、それはまずみんな少しずつ、仕事が忙しくなったり結婚出産という大きな人生の節目が待っていたりするからである。
それに、実際問題として、稽古をするにも公演をするにもお金も時間も足りないからでもある。美術の場合は教員という手があって、教えながら制作する手があるのだが、残念ながら演劇においては本当にまだそういう先生の口が少なすぎる。
まあ、どうしてこんな当たり前のようなことを書いたかというと、公演あたりの人数がどちらもそんなに変わらないということが、その内容の歴然としたレベル差に比べて不思議でしかたないからである。。
それに、西部講堂に座っていると、前半はなかなかにおもしろかったのだけれど、次第に学生同士での身内的な様相を呈しだしてそれで受け合ってもどうかなというシーンが増えてきたから、そんなことを考える羽目になったからでもある。意味もなく地蔵が吊されて、どうもタイトルは単なる語呂合わせにすぎないようにも思えてくるし。
これもお芝居することの一里塚なのだろうけれど、もう少し学生の時から外の世界にいる観客の視線にならされる芝居づくりを考えてもいいかなあと思ったからでもある。
そうはいっても舞台美術は、(劇団ジャブジャブサーキットのトリッキーな仕掛けはいつも定評があるけれど)『全地蔵洗濯機』もなかななのものだった。取り壊されようとする学生寮という設定は近くに吉田寮もあることだし学生にとってはとても身近なことでもある。ただ、最終公演日だといっても手すりをあんなに壊してはいけない。そして壊れてもそれをネタにわざと壊し続けるというのはどうかなあ。
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