Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Higashiyama
dance festival*2-3
昨日も、音とモノクロの世界として感じさせてもらいそう綴ったのだけれど、「い、ろ、は」12組、20分弱ずつのダンス作品をすべて見たあとの全体的な感想として、《「花」は表面的なものではない》というフレーズが、つぶやきのように出てきた。そういうことを教えてくれるダンスフェスだった、私にとって。
「花」とは、世阿弥の花伝書でいう「役者=ダンサーの花」と考えてもいい。通常は、躍動する華麗な身体、振付の妙、浮かび上がる色彩とかイメージとかダンスが持っている華やかな「花」のことである。あるいは、もう何とも言えないダンスの魅力も含めての身体の佇まいとしての「花」ということでもいいのだろう。
が、その「花」はここでは一見、形も匂いもない。ただ風に震え雨にうたれている気配だけが存在する。そんな「花」が生み出す、見えない音、聴こえない姿、形容しがたい風味を大切にしようとするダンス関係者たち。彼ら彼女らの気持ちの交感が東山に予兆としての「ダンス場」を創出させたのではないかと思う。
「は」16:04〜17:30。
1.森裕子 キョウセイチュウ。彼女のソロ、音編集・音響はTake-Bow。まず音がマース・カニングハムで小杉さんらが作る音に感じが似ていて、当日パンフに書いてある「コントロール不可能な虫」のことが気になりながら見ている。
16分間。前半は床運動的なものだった。
家族でお出かけするという当日、前日までは浮き浮きしていてどうちらかというと家族の中でも積極的だったのに、とつぜん行かないと言い出してしまう子どもの頃の森さんの話が書かれていた。
でも、実際の彼女のダンスはそういう個人的な世界だけでなく、紅い光のなかではサラエボの戦火での孤独とか、かってに色々なシーンを想像させてくれるものだった。たぶん、白い武道着みたいな上下に赤いものが血のようについていることからそう連想したのかも知れない。
2.ポポル・ヴフ まどろみ喫茶室。17分間。構成・演出・出演:徳毛洋子、映像:浦浜亜由子、音楽:舩橋陽。ラストがラストらしい感じの作りで、考えてみればそういう作品は少なかったのかも知れない。それまでがあまりにも日常生活だったから、そういう閉め方もありなのだろうと思う。椅子で腹筋する白い女が印象的。
白の原和代が椅子に座っている。そのうちに黒ぽい徳毛が来て並んだ椅子の取り合いになる。忙しそうに取り合っているがそれ自体なんだかぼんやりした特段に大事件にもならず何てことのないシーンを形作っている。たとえばオフィス昼休みの喫茶店の風景。あるいは、端で日記をつぶやく女性にとっての「まどろみ」の中で見られた白昼夢のシーン・・。
前回もポポル・ヴフは日記を読む(今回はすべて台詞として暗記していたが)スタイルだった。今回導入された浦浜映像も日記的な室内のスケッチで、ダンスをする舞台の背後にオーバーラップして撮されている。映像自体も、日記を語る人である「はまだくみ」の室内(食事風景からトランプ占い風景へと移る)に電車の乗り込みシーンが挟み込まれる。
3.CRUSTACEA+33。17分間。「33」というcrustseaの兄貴分であるらしい二人組(ラッパーというのだろうか、かなりコミック系だが)が全面に出て、逆にcrustseaのスマートさと上品さが浮き彫りにされたひととき。
今回のダンスたちは当日パンフでテーマとか観ないとちょっと分からない内省的なものが多い。そのなかでは異色のものであるには違いない。
オレンジのTシャツが33の顔マークなのだが、濱谷由美子と椙本昌子が着ると超かわいい。対して、33のチャンキー松本、オカップリオの二人はブヨブヨの腹を出して浮きまくっていた。声が太い方の人は映画の悪役とかにぴったりでキャラクター的にとても面白かった。パラパラというものを実際に初めて見た(もう終わっているものなのだが)。33がアンコールをしようとして出来なかったのが愉快。
4.砂連尾理+寺田みさこ、ユラフ。16分間。
《揺らふ・・古語で「躊躇する、とどまる」などの意味を持つ。何もない、あまり変化のない日常の繰り返しに、踏みとどまることを選択する。》。
逆説的だが、二人は東京でも活躍の場が生まれてきたために原点を確認する意思が必要になってきたということを自覚しているのではないか、とパンフを読みながら思った。正直、アトリエ劇研で見させてもらった作品よりも今回のステージの方が心にじわじわっと残る点で強い精神性に支えられているのではないかと思った。
もちろん、アトリエ劇研で見たピースも中に挟まれているし、一連の振付のある側面が出たわけで区別するものでもなくなっていくのだろう。が、そんな精神性を感じたのは多分、効果的に繰り返される砂連尾理の円周運動(パタパタいう雑多な物音がバック音)が、出かけるときの指さし確認に思えて仕方がなかったためかも知れない。
終わり方も、終わりを過剰に意識させない終わり方。
男女のデュエットというとどうしても恋愛への期待や恋の破綻、片思い、すれ違っていく離別などなど、そういう連想が働くことが多い。それはそれでいいのだけれど、恋だけが二人のすべてでもなく。
何というかもっとさばさばした仕事上の出来事とか出張とか、あるいは通勤途上のちょっとした会話とか、そういう時間の方が圧倒的に多いわけだし、それらも忘れないでということなのだろう。
つまり、そんな日常って意外と大切だなと思わせてくれるもの。相手のてのひらを挟む仕草なども、そこにダンス場に断片的な仕草=動作として提示されると改めて滑稽だなあと思ったり、逆にリアルに見とれてたりするのだ。
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