Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Rits-artsmanegement-test


vol.362.
7/2(火)
【番外編】立命館大アートマネジメント論小テストにおける学生の声

立命館大学産業社会学部のアートマネジメント論は、小テスト(といえど、60分間も時間があるのでいるので本テストと同じ分量ぐらい書いてくる学生もある)。高橋君による劇団衛星のプレゼンテーションが終わって、小テストのはじまり。

問題はすでに告知しているのだけれど、『社会とアートのえんむすび』第3章を一人のアーティストをピックアップしながらまとめて自分の意見なり感想を述べるというもの。
162名のうち、圧倒的に多かったのが川俣正で58名、次に宮島達男で33名、きむらとしろうじんじんはビデオの影響もあるし、そのファッションが魅力だったからか、28名と健闘。

遊び心が学生には身近に感じたのか(大阪環状線から実際に見ている学生も少しいる)、余田卓也がなかなかの人気で16名、そしてOS説自体はもっと引用が多かった藤浩志が、主要な紹介分としては11名と続き、小沢剛もテキスト的には紹介が少なかった割には10名、そして、ナウィン・ラワンチャイクンはビデオも映さず資料も補足しなかったが、6名の学生によって取り上げられていた。ヴォッヘンクラウズールも文中にはときどき引用されている、社会問題への介入として。

まあ、選挙ではないからこれをどうみるかなんて無意味だろう。それよりも、答案の後半部分には自分であれこれ考えている部分があって、それがとっても新鮮だ。
以下、答案から自分なりの意見や感想を書いている部分を少しピックアップ

《美術館などで「アート」というシールが貼られた作品は誰が見てもアートと言える。だってシールが貼ってあるんだから。コミュニケーション型アートにはシールが貼っていない。結局そこだと思う。社会的に、アートの「かやの外にあるモノ」として認識される。シールが貼ってなきゃアートでない、そんな声が大多数であろう。貼ってないシールを見極めること、シールは必要ないこと、アートという言葉がなくなること。・・芸術は社会にそんなことを求めているんじゃないかなあ。》

《アートは社会生活を楽しく、活き活きさせてくれるものである。しかしアートというとわかりにくい、難しいというイメージがある。それは有名な作家によって描かれた絵画などをアートとしてとらえる固定観念があるからだ。しかし「コミュニケーション型アート」や限界芸術といったアートは、「あ!こんなアートもあったんだ」「こういうアートなら私も関わっていけそう」と思わせてくれる。つまりガチガチに固まっていたアートを柔らかいものにしてくれる。》

《先日、藤本由紀夫の「美術館の遠足6/10」を見に行った。私自身、これまで芸術・アートを勘違いしていたことに気づいた。・・この日の作品はことごとく私の意識を180度変えた。・・落ち葉が一面に敷き詰められた部屋。思わず素足になる。座る。寝ころぶ。そのうちに知らない人同士、知らない大人と子ども、親子が何の挨拶も交わさず、全員子どもに返ってはしゃいでいる。私は思った。「アート」とは人間が生物であることを思い出せてくれる方法ではないかと、野生部分の叫びではないかと。・・》

《アートは社会の中に存在する「美意識」であろうと思う。「作品」への「視線」がアートを成立させる要因ならば「キレイな歩き方」や「上手な包丁さばき」も「視線」という外的ファクターを持って「アート」として成立しうる。つまり「発見」されることが「アート」なのだろう。「アート」は虚の世界のものではなく、実の世界にある社会からの「発見」を持って存在している(あるいは意味を持っている)。》

《私は元来の芸術観念に囚われている人間なのかもしれないが、もし元来の意味での「芸術」が否定されるのならば、一体何を芸術と認識すればよいのかわからなくなってしまう。私にとっては元来の意味での「芸術」ありきの「コミュニケーション型アート」なのである。正直のところコミュニケーションがアートだなんて言われてもピンとこないところがあるのだ。》

《コミュニケーションアートの意義は、本来なら拒絶されかねない、危険だとみなされている考え方や、問題に対する理解といったものを、「アート」という本来の活動の姿によって、理解してもらえるということにあると私は考える。》

《私はボランティアマネジメントというものに興味があるが、学んでいくとアートもボランティアも社会にとって重要であるのに軽視されがちだという点が似ていると思った。》

《今、街にはパブリックアートと呼ばれるモノが現出している。それがある場所との関係性を疑ってしまうようなものから歴史性を尊重したものまで。しかしそこに住んでいる我々にとっては関係が薄いというか・・・。パブリックアートがこの「コミュニケーション型アート」のように生活の中に入り込んできたなら、もっとアートという分野の認知も広がってよいと思うのだが。》

《この授業で限界芸術について学び、自分達が何気なく過ごしている中にも多くのアートが存在していることを知った。例えば身ぶりや手ぶり、拍手、鼻歌、らくがき・・・などなど数多くある。今こうして小テストを書いていることもいわばアートである。・・・・アートと社会は密接につながっているように思った。もっと大げさに言うと、アートが社会をつくっているように思った。》

《(私はnaturalという言葉が好きなのだが)アートにはものごとの原点に戻す力があると思う。naturalにものが流れているように見えていつしか偏っているときがある。そういうものを原点に戻すという点でアートは必須だと思った。》

《一般的に美術館で展示される美術や実演芸術も公共性のあるものや規模などによって社会との関わりはあるが、今回テキストに挙げられているコミュニケーション型アートはそれとはまた別の視点でより深い所で社会と関わり合っているように思う。参加者(他者)の活動によって生まれるプロセスそのものに目的を見出している点で明らかに社会との深い関わりの上に成り立つアートである。たとえばナウィン・ラワイチャイクンによる「室住のページ」のような特定のコミュニティのための、その限定された土地に人との間に意義を求めるアートには、“アート”というもののある種無限性も感じた。》

《アートと社会の関係はある人にとっては密であり、またある人にとっては全く関係の無いものであるように思う。私は最初後者であった。それは「アート」について西洋の古典のイメージしかなく、ハイアートのステレオタイプという何かしら高級なイメージしか持っていなかったからだ。しかし、コミュニケーション型アートは全く誰彼構わずそれに取り込んでしまい、アートの魅力について気づかせる作用があるのではないかと思い、無関心な私にも興味が沸いた。
82年のヨーゼフ・ボイスによる「7000本の樫の木」というプロジェクト(ドイツのカッセル市への植樹)は環境問題、都市問題また市民と市政のあり方までに問いを投げかけた作品だ。この中で無関心だった人達もあらゆる問題に気づかされたと同時に、多くの人と議論を交わしコミュニケートしただろう。アートは作家対個人というより問題意識を持つ人達どうしのコミュニケーション(の場)となっていけば良いと思う。》

《アートとは一言で定義できないとても難しいものであり、私にとってはつかみ所がありません。しかし「コミュニケーション型アート」という視点で見れば、私達一人一人の人生は多くの人との偶然の関わりのなかで成り立っていて、まさに「人生そのものがアート」と言えるのではないでしょうか。「死」という完成(結果)に向かって、より人生を素晴らしいものに、楽しいものにするために多くの人と出会い、成長し、また出会う人によって自分自身もその将来も大きく変わることができます。・・私も来年から社会人ですが、「人生はアートだ」と考え、自分を信じ表現していきないなと思います。》

それぞれの感想や意見を書き綴ると、君たちこれからの人生しなやかに生きてねとエールを送りたくなる答案が多くて(うるうる)、ここに書き出したりしているうちにあっという間に夜が更ける。

その他、『「こどもしょうてんがい」を調べていて、バザールカフェと小山田徹さんを見つけた』なんていうものもある。「ピカソのゲルニカ=反戦がテーマ」話は答案によく出てくるけれど、他の講義で出てきたからだろうか。


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