Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》USAGI no
DENPO
暑さのせいもあってぼーっとして桃山南口駅に着くとまだ8時半で、30分も京都橘高校での連合の会合には間があった。駅に隣接している歯科医院が初期の高松伸建築でよく紹介されたものだということを前に車で通ったとき気付いたので、少し回りをうろちょろする。
ちょっと側面のコンクリート打ちっ放しがへこんでいる感じがして時の経過を見るが、機関車みたいな金属の造形はいま見ても独特。歯医者なのに金属ぽくて怖がられるのではないかという印象を建築雑誌で見たときは受けたが、こうしてみると玄関にはお花がいっぱい活けてあるし、建物自体、子どもが喜ぶおもちゃみたいにも見える。
踏み切りを渡って山科川を渡る。宇治川に注ぐ支流なのだろう。水が結構流れている。川を殺すコンクリートの両側面が緑に少し覆われはじめているが、この川辺が自然を取り入れた親水空間づくりだったらどんなにか気持ちがいいだろう。
向こう側に古いアパート群。その川辺の小さな小径に、そこだけ、木々が川へと覆い被さるように突き出しているところがあった。
近づいてよくみると、その幹の表面を細長い節の多い虫がぎっしりと群れ合ってずるずるずるずるとうごめいている。その虫の殻だろうか、フジツボのようなものも密集してついていて、こういうのはエイリアンとかの映画の原形なのだろうなあと、一方でちゃかちゃか朝から働いている蟻(こいつらにはぞっとさせるおぞましさが不足している)を見ながら思ったりする。
潜る前から、こうなるだろうとは思っていた。蝉時雨のトンネル。ドーム効果が頭上から降りてくる。でも全く予想できない音が混じる。蝉のさんざめく合唱に、よく聴くと川の水音が混じっているのだ。F/1ゆらぎの2乗ってやつなのだろうか。音のモアレのように二つの音がもうひとつの干渉波を生む。
たまに電車が通る。アパートから子どもの声。
あんまりこうして音のトンネル内を散歩していると怪しい親父と思われるかも知れないから、少しして蝉にさよならする。そろそろ梅雨明け。高校生はバスでどこかに出かけるところ。
連合組合の仕事を終えて、一度家にもどってから、扇町ミュージアムスクエアへ向かう。いままで頭がずっとがんがんしていた。が、OMSの黒い壁のそばのいつもの席に座ると、そうするだけで、すーっと頭痛が収まっていくのが感じられて、不思議なものだと思う。こういう感覚は昔ザ・スズナリの席に座ったときにも起きたなあ。
演劇を観るとことはまず劇場を体で感じることが必要で、劇場という特別の場を全身で感じない限り、そこに本当のお芝居は始まらないということなのだろう、とか考えたりする。
清流劇場はいつも巳を正すようなきりりとした演劇作品を世に問い続けていているのだが、今回のは特に筋書きがストレート。そこでは、作者の思いがきちんと伝わるように俳優は全て喪服を着て余分な装飾をなくしている。つまり言葉だけで自分の役柄を語るのみであり、それ以外の大げさなキャラクターづくりをしない。
語り部としてのアンサンブルを大切にしている舞台。だから、作者としても演出としてもそれに応じる役者としても、舞台における一言ずつ台詞に心を込めてあって、それを受け止める私達はとても清々しい気持ちになる。そういう意味でも、これは内容だけではなく、前作『約束のヒト』における温泉の町を巡る兄弟の葛藤のお芝居の延長線上にあるものだ。
これらにはお芝居の原点がある、それが日本のいままでの利権政治と公共工事型まちづくり(村の喪失という非合理な結末を生む地域振興)という明確なメッセージを孕んだものであるとしても。
清流劇場2002年7月公演『うさぎの電報』(作・演出:田中幸弥、扇町ミュージアムスクエア協力公演)。15:06〜16:29。
4つの階段があるだけの舞台。階段の下は黒で上の2つの段々だけは白。黒いところまではいつも水に沈んで見えない村という設定なのかも知れない。ただ、その上に234メートルという(村がダムに沈む前から、すでにおまえらはここにダムが出来たら沈んでしまうのだよと脅迫されていた)水深の表示があって、数字という一見合理的で実は非合理な帯が頭上を巡っていたりもする。
かつて清流の源であった山村一帯にダムが出来て山林が切り崩され、村の生活を伝える文化ごと沈没し消滅してしまったところも多い。ダムとなり果てた水の源流から流れいずる川はもう自然の蛇行を許されずに窒息した三面掘りの堀となり、最前見た蝉のトンネルを持つ山科川の河岸のようにコンクリートで固められている。
演出助手にJAM Westの会員の山根聡子。彼女の張りつめた凛々しい顔がそこにはあった。劇中に語られる役所の論理とか税が払われなくなった両親への容赦のない理不尽な土地収容係の小役人の言葉などに、ひょっとすると彼女の実体験(東大阪市役所の税務職員として働いていることなど)が反映しているのかも知れない。
さきに語り部としての役者という紹介をしたが、元衆議院議員の庄田役の木嶋茂雄だけにはオーバーアクション的な演説をさせている(あとは百姓たちが集まる合図のドラム缶を叩く大きな音と「結集」と叫ぶ徐々に空しくなる声だけが、淡々とした語りと水音の微かなどよめきのなかで際だつアクセントである)。
作者が明治時代からの資料を渉猟したためか、庄田議員が戦前の政治家風(大正デモクラシーの自由党とかもっと前の自由民権運動的)なのが、ちょっとおかしくもあって、そういう演説をするヒトをぼくも国会や県会、市会で一度でも出会ったら役人であったときにあんなに議会出席が退屈でなかったろうにとも思ったりもした。いまの国会ショーは不正暴きの疑似裁判風ぐらいしか耳目を集めず、小泉答弁の相手の質問を無視したような切り返しがちょっとの間新鮮に映ったぐらいだから。
清流劇場としては3名の役者(武資子、船戸香里、谷川未佳)が出演しているだけだから、ゲストの役者の方が多い(6名)。その3名と同級生の男性に、おとなしいが農民の後継者的実直さを持つ宮崎役の倉田操。木嶋茂雄が演じた庄田の妻に、小畑香奈恵。さらに、農民のリーダーで途中まで引っ張ってきた磯田には杉山寿弥、そしてその妻が二宮久美子。このふたりの妻の、控えめながら強い意思を持つ女性像をこの二人の女優が的確に描いていた。
磯田という農民の転向(主観的には敵である公団内でのかく乱作戦)の問題と、いつもライターとして(私は当日パンフを見なかったため、共産党事務局職員みたいな立場かと思っていた)部外者のシンパ役を演じる菊池(山田一幸)の立場が、白いウサギの叙情的な飛翔というラストとは別の切り口を示している。
その辺りの複雑な社会性の描き方はちょっとさらっとしている気もするが、高校生や大学生にとってはこれぐらいの切りつめ方でも、人間の複雑さにめまいがするのかも知れない。庄田の一途なあり方と比べると。
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