Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》kiss-eisei-A

vol.364.
7/9(火)
劇団衛星グループA『ここでkissして』(作/松田正隆、演出/蓮行)東山青少年活動センター

東山青少年活動センターへ。私には都合がよかったが、18時から開演にした理由はセンターの終了時間の関係なのか(21時までのようだ)いまだに分からない。高校生あたりを狙ったのだろうか?でも今日はそういうお客さんはいなかったし、火曜日ということもあるが、空席も出てとてももったいなかった。

劇団衛星7月興行『ここでkissして』作/松田正隆。グループA。18:03〜19:38。
劇団衛星は芝居の中身とともに、公演場所や興行方法とか環境づくり、話題づくり(PR)やターゲットを絞った観客開発などについて、様々な工夫と実験を繰り返す集団である。

今回の実験の第一は、まずもって彼らとは全く違うと思われている京都演劇界の先輩、松田正隆の戯曲を選んだことだろう。いままでは蓮行の本であり--違うユニットで黒木陽子や田中遊の作品もあったかとも思うが、つまりは劇団内で創作をしていた。

そこにもってきて今度は既存の戯曲(それも「静かな演劇」と言われてきた静謐な戯曲)の演出だけを衛星的に挑戦することになるのだが、ここにまた仕掛けがあって、グループAは劇団主宰の蓮行による演出、そしてグループBは正直者の会でその実力が顕在化してきた劇団メンバー、田中遊が演出するという。

そして、この二組(5名ずつでBのみ衛星ではなじみの金田典子が客演する)は公演当日まで一切シークレットに稽古をしていて、ある意味劇団内部が分断された状況(サッカーの秘密練習みたい)になっていたそうである。

6月には公開ワークショップがあって、彼らが感動したという松本修MODE代表を招いて稽古をつけてもらったりしているのも、ある意味衛星が自分たちの若さを爆発していた時期を通っていま演劇界の系譜を自分たちなりに吸収しようとしているためだからかも知れない。

当日パンフに感心した。要を得て簡とでもいうのだろうか。あらすじがまずあって(これは本がすでに出来ているので要約しやすいことは確かだが)、キャストと役についてのコメントが、一人ずつ10名分載っている。5人の登場人物だから、役者名と登場人物が一致しないということはまずないだろうが、それでもこうやって思い出して書く(最近ばたついていて、これを書いているいまは2日後である)のには便利だ。

それに、終わってみると、例えば、梶山役の駒田大輔が「あいつとは話し合って別れた。」と書いているのは「ふふふ(そんな!)」と思ってしまうし、まだ見ていない梶山役のチャック・O・ディーンが「大学時代は写真サークルだった。パノラマ好きだった。」というコメントも変におかしく思う。

さて、松田正隆作品の持ち味をそのまま活かす形で料理したと蓮行は言っているし、たとえば舞台装置(西田聖)の灰色な簡潔さとぎっしりと床下に敷かれた石の重量感は、例えば平田オリザが松田作品を演出して各地で公演した舞台を彷彿とさせてくれる。もちろん、その舞台を充分学習した成果がここに出ているのだろう。あるいは、何となく裸電球をつけたり消したりするのは、よく鈴江俊郎率いる劇団八時半の舞台を思い出す。が、ちょっとそれらより戯画的にこのステージがみえるのは、やはり衛星の味(=かろみ)なのだろう。

だから、脚本自体がコメディであるわけはないのろうだが、ミステリー風味でちょっくらサスペンスありのしかも黙示録的な悲しみに満ちているのに、どうしてもやっぱり喜劇という印象を最後に与えるのはどうしてだろう。まあ喜劇なのか悲劇なのかはどうでもいいといえばいいので、それでこの舞台に深さと広がりがどこまであったかが大切なのはいうまでもない。

もちろん、喜劇として成立していたとすれば、自分で変態だと紹介する杉並(岡本唯司)の存在自体のおかしさを無視すべきでないし、もっと狂気に描くことも出来たけれど、独特の役者(岡本)によるキャラクターも相まって、軽やかさを全面に出した役柄づくりだったように思える。

私の理解では、松田正隆作品には2つの流れがあり、長崎の島や場所を方言と共に描く作品群(P)と、原始キリスト教やユダヤ教が生まれたような土地などが舞台のもっと抽象的でどこか茫漠とした作品群(Q)があると思っていた。

けれど、この作品は2分法では分類できない部分が残る。後者(Q)の系譜に入るみたいだが、石を磨いて太鼓を叩く新興宗教がきわめて日本的な習俗を持っているところは、かなりローカルな文化性も持っている。従って前者(P)の日常性も少しあって、不思議な味わいがある。

前者(P)は比喩的に言えば「海」、一方、後者(Q)は「砂漠」という印象を持っているのだけれど、そういう面ではこの作品は(Q)のように見える。川が枯れた石がごろごろしている灰色のまちだから。そしてその上に、ただ同然の住まいが浮いている、取り残されたままに。柏葉(蓮行)が生まれ育った奇妙な家である。母も祖母も隣の新興宗教の信者だった(もちろん念仏踊りをやっていた昔は浄土教も新興宗教だったわけだけれど)。

柏葉がここに女を連れてくる。昔は切木(筒井加寿子)、いまは北浦菜摘(真野絵里)。初めはよくある上司と部下の不倫物語に前の恋人梶山が絡む話なのだと見せかけながら、少しずつ、男女関係のもつれは多重化し、さらに(それらの奥に潜む)柏葉の家族やそのまわりの部落の神話的世界へと人を誘っていく。

そのとき暴かれる地面の底。底を透かし見れば、流れる水、あるいは血の凝り。乾いた石とまちと思わされている表面を穿つことに集約されていく脚本をいかに舞台上でクリアにするか。つまり(Q)と思ってみている舞台に、いつ(P)に見られた海の深淵を見せることが出来るのか。

グループAにおいては、台本に忠実にそれを試みかなりの程度成功していたように思う。その分、少し演出的な意外性は少ないという贅沢な注文はつけれるかも知れないが。グループBについてはきちんとレビューできていないが、(P)的な海をカーニバル的にあっけらかんと演出したラストは特筆すべきものだった。


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