Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》school of poem

vol.372.
8/1(木)
お盆墓地編 番外『詩の学校』應典院墓地

番外の「詩の学校」は應典院のお墓の中で行われた。そして。丼屋さんでの打ち上げ。これからお盆で忙しい元映画プロデューサーの住職が生中をおごってくれる。そのとき、和装の詩人は。目の前のワークショップ生から「先生」と呼ばれ、前の恋人と顔を見合わせていた。

ぼくは、ちょっと「先生」と呼ばれることに慣れだしていた。せっかく。成績表もみんなつけ終わってほっと、上田假奈代先生のもと。詩のワークショップをさせてもらったのに案の定。自分が作った詩の後半は、学生たちを秋田住職に紹介するさもしい内容になっていた。

應典院を一日取材していた毎日新聞社の辻記者と一緒に歩いていると、シアトリカル應典院はいかにユニークかを語ってしまう。あなたは関西の芸術環境評論家?
ううん、ただの詩のワークショップ生です。

こんな開放感は久しぶり。それは假奈代先生とお盆の前のお墓という場所のおかげではあったが。
風で燃えだしてしまう即席の行灯の火で、言葉を手書きで縦に綴り始めたら、忘れてしまっていた詩の感触がちょろっと蘇る。一度書きつけた文字をもう一度書き直す。少し見られるようになり始める。

通貨のようにニュートラルを装って使っていた言葉たちが、少し自分に戻りそうになった。十代のはじめ、自分のためだけに書いていた文章、詩の試案、短歌のはずの短い綴り。ちょろちょろ。自分で自分を葬り去ったものが顔を覗かせた気がした。

もちろん、いま自分がこうして書いている日記の言葉は自分の「ことば=事の端」のはず。でも。

それは自分が紹介したいアーツのための不完全な言葉でしかない。
授業の私の言葉は学生が整理して考えるための学生のための言葉。
そんな縛りが、お為ごかしが、結局自分の言葉を薄くしていたように思う。
自分の考えて生み出すべき言語の構造をステレオタイプにしていた気がする。

あえて。混沌のなかへ。自己満足かも知れないけれど。ちょろちょろちょろ。8月は自分のために言葉を歩かせてみたいと思った。

(参考)
ワークショップで作ろうとした出だしのところを記念にアップしておこうかな。恥ずかしいけれど、この日録8月バージョンのきっかけとなったものなので、参考として残す意味(というか言い訳)もあると思いますので。
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【夢の続きを探している〜今日もまた日録を綴ってしまった】

せっかく完成した夏の絵日記が見つからない
ぐっしょりの汗の中で、
黒鞄を探すひっくりかえす
工作やら朝顔の種やら 道ばたで拾ったグリコのおまけやら
が入った紙袋をばりばりやぶる
それでも見つからないので 先生の前で目玉を剥く
思い切って
忘れましたといえば終わるのだと夢見ているぼくは思うのだが夢のなかのぼくは終われないまま探している
だから「夢はさめた」のだが

探すことが終われない終わらないことで夢の続きを探している
何を探しているのかすでに少しぼんやりとしている何を探すのかということはもはや問題ではないのかも知れない
探すことが面白いなどとのどかにやっているのでもなく何がぼくを探させようとしているのかが分からないのが癪にさわるだけなのだといってみたりもするが

ざわざわわさわさくさくぱらぱら 積み上がった書類を崩して積み直す。
一週間前見つけられなかった招待券 1ヶ月前黒板の前で立ち往生していた英語のスペル 1年前約束していた墓参り 5年前の娘とのいざかいと10年前の引越
・・・・・・(以下、省略)


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