Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》New Produce Project 1


vol.419.
1/23(木)&1/26(日)
京都芸術センター『デュオの可能性』Aプログラム&Cプログラム

1/23(木)分

New Produce Project 1『デュオの可能性〜二人芝居のオムニバス公演』A プログラム。この企画は丸井重樹(C.T.T.事務局)で、当日パンフに《芸術に順位や勝ち負けなんかないって言う人もいるけど、「基準や価値観がそれぞれ違うからねえ」で済ませちゃっていいのか? やる側も、観る側も、そんなぬるま湯の中に居はしないか?》と書いている。

たぶん、芸術自身にはスポーツのような明確なルールによる勝ち負けはないけれど、プロデューサー(マーケティングとかファンドレイジングなどだけではなく、アーティストとの緊張関係でつくっていく部分でも)の優劣はあるんだろう(あおったり唆したりするあくどい部分も含めて)と、「芸術に順位や勝ち負けなんかないって言う人」の一人のぼくは思う。

(それでも「勝ち負け」というのはやっぱり嫌だけれど。ただ仮定のルールを作って審査員の責任を明確にしプロセスを透明にすればコンテストをすること自体〜いまのものは多くの場合権威主義が鼻についてほとんどダメだが〜全くに無意味だとは思わない)。

そこでもなにが基準になるかがまた難しいが、外面的には助成金を獲得できるかどうかであったり、動員数とかマスコミに取り上げられることだったりする。もっと底には市民の信頼を得ているかどうかだったり(ボランタリーな支援がどう起きたか)、個人の判断でやってきた多様なお客さんを、量的にも質的にも確保できたか(公共的視点からは、そのための教育的アウトリーチをどうセットしたか)どうかだったりもするだろう。

それ(=アーツマネジメント)がまあ芸術プログラムやアーツセンターの「行政評価」として俎上に上がる可能性を考えているんだけれど、でもハーバーマスも言うとおり、機能主義ではなく、それは対話によって行われるべきである。でも、「プロセス=コミュニケーション的行為」自体を外側から「評価」することはできないわけで、だから対話型の「了解」をその「評価」であるとすることは可能かどうかを、いまいろんなところで模索しているわけである。

芝居の内容は、こちらがかなり忙しいすぎるので残念だけれど省略(もう1回は見られるのでそこでまとめて書くかも知れない?)。はじめが「蝶のような私の郷愁」(作:松田正隆、演出:森美幸)で、あとが「pas de deux〜パ・ド・ドゥ」(作:坂本チラノ、演出:藤原大介)。前者は、戦前の戯曲の雰囲気もあるなあとまた見て思う。後者ははじめて見る。サイモンとガーファンクルが懐かしい。「卒業」という映画はそんなに好きでもなかったけれど。坂本チラノという人を検索したら、もと劇団新感線の人だという。

1/26(日)分

少し余裕のない気持ちで京都芸術センターに行ったことも影響したのかも知れないが、二つの芝居は、前半はとても気持ちよく楽しませてもらった一方、後半の公演では下を向いて終わるのを待つ状態になってしまった。

New Produce Project 1『デュオの可能性〜二人芝居のオムニバス公演』C プログラム。「蝶のような私の郷愁」(作:松田正隆、演出:山口茜/トリコ A)19:05〜19:57(コンパクトで実に濃密な描き方)。「pas de deux〜パ・ド・ドゥ」(作:坂本チラノ、演出:石原正一)20:13〜21:19(無意味なコントとか踊りとかが時間を長くし、挨拶でも演出者が出てきて今回の成果を話すなど冗長なもので、このあとにまだ何かシーンがあっていたようだが耐えきれず退出)。

木曜日に二つをすでに見ている(A プログラム)ので、同じ内容を違う演出で見るのだが、山口茜組(堀江洋一×中村こず恵)は、冒頭に台本上はたぶんラストである電話シーンを持ってきて、それから思いっきり意表をつく形で(松田作品イメージの先入見をうまく覆して)、合羽→河童の姿男という、「ベトナムの笑い声」化してしまった男を登場させた。会社人間のカリカチュアでもあるのだろうかとも考えるいとま無く、ただただ新鮮な驚きをまずもたらたせてくれたので、たまらなく可笑しくてちょっと哀しい状態のままでぼくを最後まで引っ張ってもらった。

舞台も今回は引越しようとしている乱雑な部屋となっているから、全体が、ひょっとするとすでに男が颱風の水に飲まれてしまったあとに残された女だけの回想風景とも取れる。劇中にモデルマンションへ行く(結局行けなかったのだが)ことを想定した幻想1のシーンと、海岸ばっかり走る列車に乗って海辺に行く二人の幻想2のシーンが、本体よりもずっとリアルに見えるのはそういう想定だからかも知れない。

(ちょっとコメディ的な簡略図式化だなあとも思ったが)演出的に一番面白かったのは、停電になってからの男と女の態度逆転の鮮やかさだった。それまで、男がいままでかなり女に威圧的で女がおどおどしながら受け答えていた(それでもささやかな抵抗の明るさは失わない)のに、暗くなると女が俄然強くなる。海を見たこともない世間知らずの妻の可愛いさへの男の愛情が全面に出るというわけだ。いや男が優しくなったから相対的に女が堂々としてくるという風にも言えるが。

洪水と海と河童。
河童が水に帰っていく。
愛した夫の突然の死をいかに妻が受容していくか。葬送のための回想劇がこういう演出でも可能だということにも気づかされる。金魚の生活とつましいアパート暮らしの関連など、すぐれた戯曲には意味の襞の多さが存在することを思い知らされたし、なかなかに意義深い企画だったと言える。できれば、終わりにあたって爽快な気持ちにさせてもらうためには、ぼく的には、前半と後半が逆だったらよかったのになあと思うけれど。


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