Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》UMI-to-Higasa:KOREA


vol.436.
3/27(木)
韓国語版『海と日傘』(演出:ソン・ソノ)
京都芸術センター

京都芸術センターへ。雨が降り出した。韓国語版『海と日傘』作:松田正隆、演出:ソン・ソノ。舞台は一つのちゃぶ台。すべて正面にそれらは配置されている。8畳以上はある部屋と縁側(美術の西田聖ほかスタッフは変わらない)だが、広すぎる間口の講堂なので舞台を両側から狭めている。

そしてその両側のつぶした所に日本語字幕が映る。見やすく、九州弁の台詞以外に、はじめとおわりに、それは松田のト書きなのかそれともつぶやきなのか、イントロ的な言葉が流れる。生きることと死ぬことが、復讐なのかも知れないとかなんとか、そんなことをぼんやりと読みながらお芝居が始まる。

この字幕部分は余計なことのようにも思ったが、以下に書くような作品の象徴関係性を劇中の物象から探るようにぼくにし向けたのもこれがあったのではないかとあとになってからは思ったりもする。

韓国語の会話が実に自然に聴けるようになっていた。近頃韓国映画などで馴染んでいることや大学にも留学生同士がしゃべっていることもあって、韓国語の意味はほとんど分からないのに、「・・スミニダ」とかいう語尾は「ヨカネ」「ヨカタイ」「ヨカバッテン」とかいう九州弁の語尾と同じような軽い個性として感じていて(違和感はとても少なく)、ずいぶんと韓国語が近しくなったなと思う。

これは韓国の俳優さんたちの特色なのかも知れないし、強弱のある子音や抑揚のある言葉の特性なのかも知れないのだが、登場人物の性格や気持ちの変化が日本語版よりも実にクリアで、少し大げさにも思うが、それも韓国文化だからいいんじゃないかなと思って見ている。

日本語版では二口大学さんのやっていた隣家のオジサン瀬戸山剛史が髪の毛を撫でる様をコミカルにやっていたり、何とも面白く、少し松竹新喜劇も交じっている錯覚に襲われる。

同じ劇作品を続けて違う演出と言葉で見させてもらうとこんなにも劇作品自体を構造的に感じられるものかと驚く。すべてがそうだとは言えないが、こうして演劇内のアイテムを象徴的に繋げていったり対比させておいたりすることが重要だと思う。だがぼくは通常そんなことをすることもなくこの日録などにメモっては次のステージに進むから、こうして立ち止まって一つの作品に向き合うことは劇評のおかげであるが、とても希有の体験となった。

今日は、ちゃぶ台の下にあった何の蓋か分からない赤いキャップのことと、妻が公園で出会ったという女の子が下げていた赤い水筒の蓋とのつながりが一番の発見(というか自分としての連想)だろうと思う。

この女の子は妻の少女時代ではないか。まだ元気で赤い水筒でおままごとをするかげりのなかった自分。それがいまは何の役にもたたず不審に思われる赤いキャップとして潜んでいる。

「赤」というのは、舞台上では海に行こうとして彼女がつけた赤い口紅へとつながる。誰も見ないし、結局は行かなかった海へのお出かけのための紅は、夫を最後に自分に取り戻すための重要な紅(勝負の赤)と結果としてはなったのである(夫と関係のあった編集者多田がそこにやってきたからだ)。

もう一つ、赤は隣家の瀬戸山剛史が瓦に当たって流しただろう(多いのか少ないのかは分からない)赤い血とつながる。その赤も白い包帯で隠される。日傘も太陽の命を象徴する赤を避ける白であり、雨傘も雨という日とは対照的な生命現象(つまり死という生命破壊へ動かす情念もまた負の生命だ)の被爆を避ける、日常の平穏さを維持する装置である。(なお、ここが長崎かその近くということで、妻の病気が原子爆弾被爆〜強烈な光と黒い雨〜と関係していることを示唆しているので、実は分析はより複雑になるのだが・・)

つまり、「赤」がナマの命(生と死、情念)を表し、同じく「赤」の裏面でもある「海」は雨とつながり、結局は水であり情念であって、コップから時に流れて妻の興奮がちゃぶ台に流れてしまったりする。夫と関係した多田(編集者)の傘が壊れて雨に濡れているのとちょうど対応しているのはいうまでもない。

だから日傘、雨傘、壊れた傘のそれぞれに共通する「傘」は、比喩的ではあるが、日常を支え、生死の「ナマ」の姿である「赤」や「海」に直接触れることの恐怖と臆病さを表しているとぼくは思う。その点はダブルミーニングになるが赤いキャップのキャップも蓋である部分、傘と共有する部分もある。

水筒が男性生殖器であるようにあえて解釈してみると、妻が流したコップは女性性器から流れた愛液であるとも解釈でき、そのことから傘は生殖を防ぐコンドームであり、コップや食事を入れる容器はあふれ出てしまう情念の流れをしまうものでもあるわけだ(「お茶漬け」を夫にあえてすすめる妻についてもまた改めて考察したくなる)。

いやはや少し俗流フロイト的になってしまったが、いずれにせよ、この「傘」は公園に置き忘れたり壊れたりして、熱いエネルギーに直接触れ、日常の堰が思わず溢れるときにドラマが生まれる。

しかしながら、ソン・ソノが当日パンフに書いているように、そのドラマの頂点は見せずにドラマの兆しのみをこのような鮮やかな象徴的な対比で綴るのがこの『海と日傘』という作品である。そしてそのこと(ソン・ソノの言葉を引用すると「日常の中で、・・むしろ瑣末なもの、流されてしまうものを精密に再構成し、その中の微妙な感情と葛藤をあたかも隠すかのように描いている」こと)にこそ、この作品が幾通りにも演出でき、鑑賞したあとにさまざまな発見(自分の見落としの発見)を促すことを可能にする秘密があるのだろうと思った。

なお、まだまだ象徴的解釈については考えたいアイテムがある。たとえば、雪は日の欠如(寒さ)によって変化した雨である。でも白くてふわふわしている雪に傘はいらない。それが妻の死とともに降る。

他方、雨と太陽の関係、それらの架け橋としては、妻がその中にいた虹も大切である。それは光だけれど、日傘で遮る必要のないのが虹である。つまり、水によってプリズム分解された光の構成要素であるからだ。

このように、「傘」とともに、雨と日に関連する自然現象である「雪」と「虹」の象徴的な役目を考えるのもまた残された楽しい課題だと言えよう。


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