Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》SAWANOBORI Kyoko
京阪天満橋駅を西口から初めて降りると目の前がすぐに川で、桜が並んで満開である。寒い風に満開の桜色が白く曇った空に溶けだして、暖かい明るさを待たずに花びらが空気を染めていく。
匂いはしない。音もなく、どちらかというと騒音を消してしまっている。まあ、ぼくの神経が桜へと向かうので回りの音も臭いも感じないだけなのだろうが。
NPO法人CAS(Conemporary Art and Spirit)へ。すると、途中に同じ都住創の釣鐘町マンションがあることを偶然知る。この地下でよくダンスや演劇の公演があり出かけていたのに、その先の都住創内淡路602号室のCASとこことの位置関係(歩いて数分の距離)をまるで知らなかったわけだ。
さらに、ちょっとその先のお地蔵さんや「佐藤邦雄小さな美術館」を見つけて、この辺りが意外と面白いスポットなのではないかと思い出す。
さて、CASの『散華』澤登恭子展(3/17〜4/24)。キュレーションは水戸芸術館現代美術センター学芸員の浅井俊裕。今日はパフォーマンスと澤登と浅井とのトークがある(実際のパフォーマンスは16:15〜16:38、5分ほど休憩のあと、17時半過ぎまでトークで、そのあとシノバー)。
ぼくが入ると今日のお客の一人目だという。3/17のオープニングも記録的な少人数だったとか、ちょっぴり心配になることが話されていた。でも今日はそのあと若い男性が二人来たりした後、刀屋の伊藤さんやCCA関係の人たちとかしばたゆりさん、應典院の大塚さんなども来て20名ほどになり、ちょうどいい具合である。炎の光もゆらめき、薄暗い部屋が観客によって取り囲まれている。
澤登恭子の「Honey,Beuty and Tasty」というかなり欲張った題名を持つパフォーマンス(CASでも行われていたということ)を見たのは、2000年の名古屋。N-markらが行ったApple展のことで、ミルクを使ったパフォーマンスをした女性とともに記憶にかなりはっきりと焼き付いていて、そのためにいつもいただくCASの通知を見てぜひにこのパフォーマンス当日の今日を狙おうと思っていたのだ。
名古屋のときは、レコードをターンテーブルでまわしながらハチミツを垂らしてそれを舐めるという、音のDJであるとともに、どろりとした、しかも甘いハチミツという艶めかしい液体を客の目で舐める行為を見せていた。
「食べる」ということのエロスを、黒いノースリーブスの下着みたいな衣装の彼女がエロティシズム表現を十分に意識しつつ、でも必要以上には嫌らしくしない程度をわきまえてやってみせていて、彼女の少しふてぶてしい感じや口数が少なく暗めの印象を持っていた。
そのあともミトゲイで桃を手をつかわずに食べる映像とか、百合の花を食べる(これは逆まわしになっているので口から百合を誕生させるようになっていたらしいが)映像という風に、「食べる」ことがモチーフになっていた。ただ彼女の場合は「食べる」ということにこだわっているのではなく、自分の身体を使うことに興味を持続させているので、まだ実現していないがバスタブに沈んで浮かぶこととかしたいものはすべて身体性に結びついているということ。
そこで、今日の「散華」パフォーマンスである。普段の展示は、黒い台の上に3つの大きな鑞が入った器に灯る灯りが並んでいて、その回りに、一見桜の花びらにみえるものが散らばっている形になっているそうであるが、今日はそれらがみんな床にインスタレーションされていた。
まず、百合根に似ているとか、爪(人工につける爪という感じ)みたいだと観客が言っていたもの。それは実際は薄桃色の鑞で出来た桜の花びら状のものであるが、それらが、今日は床に真ん中に丸く並べられている。その回りに3つその大きな平べったい容器に入った蝋燭が置かれている。部屋は薄暗く、蝋燭の炎が3つ部屋を揺らす。
白い麻のノースリーブ姿で澤登がゆっくりと登場して回りを歩む。一つの蝋燭皿の近くに止まり、座る。
そして、鑞が溶けている炎のそばに自分の指をつける。右手は4本、左手も4本。その鑞がついた指の先を空気に触れさせる。少し演技ががった動き。彼女は昔演劇をしていたそうである(出身は取手の東京芸大大学院)。固まった花びら鑞をてのひらにさらりと受けて、ふっと花びらを散らす。それを3回。
あとで彼女が話していたことが、溶けた鑞に指をつけるのはそんなに熱くはない、でも、そのあと指についた鑞を乾かしているひとときが低温やけどのように熱いのだそうだ。マゾヒストならばその感覚は周知のことだろうが、ぼくには実感はない。彼女はさして熱そうにもしないが、少しゆっくりなのと、炎のそばに指をつけるので少し困難が伴っているのかなとも思っていた。
ただ、それよりも、その8つの指で出来た鑞が、そこに丸く散らばっている桜花びら鑞なのだと気づくこと。すなわち彼女の指による花びらづくりの蓄積と散華が一気に明らかになる。
そして、一連の行為を3回繰り返してそれを3つの皿でするというのは、「散華」の単なるダジャレなのかどうかは分からないが、儀式にはそういう形式性が必要なのだろうから、それはそうだろうとかってに納得して見ていたりもする。
最後に3個所の炎を指で消して終了。これはかなり熱いのだそうだ。‘自分が美しいと思ったものをするとおのずから苦しいもの、痛みを伴うものになっている’とトークでの澤登は言う。文楽の人形遣いも人形がスムーズに動くように見えるときはとても苦しい姿勢のときだという話となんだか通じる気がした。
もともと澤登がお酒を飲んでいるときに溶けた鑞に指をつっこんで花びら状のものを作って遊んでいたのが、この作品のベースにある。彼女の個人的な死の体験とイラク攻撃前夜の動きがきっかけともなり、予め想定していた刺繍を使うものではなく、この作品に急きょ替えたのだということ。
桜が散る季節ということも勿論あって。
「こぐれ日記」の扉へ
無断転載禁止 掲載:アーク編集室