Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》outreach as lecture


vol.439.
4/18(金)
授業というアーツアウトリーチの一こまなど(追われる日々)

先週は新入生キャンプだったので、今日から始まる科目が2つもある。どちらもフィールドワーク(現場仕事)系だ。
一つは3時限目の芸術文化鑑賞演習。3回生用のはじめての科目である。30名ほど。演習という名前ならば半分ぐらいでないとうまくいかないようにも思うが、まあ、何とかなるだろう。

劇団八時半の新作公演を観てそのレビューを書くというのが最終試験にあって、それ以外に短いレビューを3つ書いてもらって採点するというもの。ちょっとこちらの労働としては、4本×30名分のレビューを読むことになるので、過剰なものかも知れない。だからみんなの分を添削とかはできないし、逆にこちらがのめり込んだとしても、そこまでライターとしてやりたい学生も少ないだろうから、あんまり過剰に打ち込んで失望を繰り返さないように注意しようとは思う。

だいたいに、1期生の授業は常に初めてなので自然と力んでしまう。それが過剰な期待とそれへのリアクションの少なさによる失望という繰り返しを生んだのだろうといま反省することが多い。だから、余りに期待をしないし、こちらが希望を持ちすぎない。
でも逆に言えば、決して絶望はしない。望みを持ちすぎず、でも可能態としての望みは常に失わない。

それでも失望が繰り返される、で、それは常に一時的なことだととらえる。彼女たち一人ひとりの成長の可能性への望みを「絶つ」ことではない。ちょっと人生訓みたいで恥ずかしいが、これが教育なのだろうと思う。来週はアートスペース虹に出かける。赤崎みま展があるからだ。この日に来れなくてもいずれかの時間で鑑賞すればいい。その自己選択がどれぐらいの確率で作動するのか。義務づけられるのではなく自己のために動くこと。
また、ぼくの楽観主義が試される。

4限は去年もやった2回生用の科目、地域文化事例研究である。28名、若干前回よりも少ないがゼミ的な位置づけのものとして多いのは確かだ。とても昔のことのようだが、去年はベッカム君らのおかげもあって散々だった。授業にならない日もあった。今年はだからクールにはじめる。クールすぎてびっくりするほど誘導に失敗する。そうか、2期生は1期生以上に、アーツセンターのことを知らないのだ。

去年は京都芸術センターを対象とする学生が6名もいて、もっと遠くもやれよと思ったが、これは当たり前の選択(ここを研究しないでどこを研究するのだというぐらい素敵な場所であり、いろいろなアーツマネジメント的、文化政策的課題を発見できる最高の場所)だろうと思っていた。ところが、今年は誰もここを研究しないというのだ。

これには参った。同じようにアトリエ劇研もゼロ。うそーって叫びたくなる。アルティでようやくひとり。これは彼女たちの自由に任せると(その程度のままにすると)こうなるのだというサンプルではあるが。

大阪市立芸術創造館もいない。誰もアーツマネージャーになりたい者は受けていないのだろうか。他方、もっとすごい衝撃は、新風館(これはアーツプレイスなのだろうかという疑問もわいてくるが、そこは少し考えてイベントスペースなどを取り上げるとはいう)とか大阪城ホール(ここも、OTP構想へと誘導するなどしてなんとか形にしなくちゃいけない)を「研究」したいと言われたこと。

もう開いた口が塞げないのだが、本当はこういうところにうちらの学生はいるのだということがよく分かるので、ここから出発する(あるいはここでもう止まって別の道を歩み出す)のだろうと思うととても気分は楽になる。

ただ、もう少しは安易なものだけではなく確かなアーツへと誘導していくべきだったかなと思う。でも、多分これでいいのだろう。来年度の専門演習は目一杯の18名ではなく、5名ぐらいでやりたいなと思ったりもする。

長女には過剰な期待、次女にはリバウンド的放任。

こういう傾向をどうしても取ってしまうのかなあ。でも、まだまだカムバックできることもあるはずだ。碧水ホール(これはやっと来た)やアルティ、新神戸オリエンタル劇場(キャラメルボックスファンがいるので)を研究する学生がひとりずつになったのも残念だが。本当は実に参加して欲しい栗東市のさきらとか、研究するべきフィールドをきちんと選ばさせるのには、自由選択の方式には無理があることを痛感する。来年度の課題だ。

アーツカフェをしたいと言った基礎ゼミだった二人の思わぬ熱心さ。2期生の基礎ゼミは放任にしていたけれど、ちゃんとぼくを見てくれていると思う部分もあったし、常に両面があるのが、こういうライブな授業の面白さ。でも、2回目というのは鬼門であることだけは確かだ。

大学院生の斉藤さんが研究室に訪れる。京都舞台芸術協会の会報誌を渡しておく。DIVEの資料もどこかにあるのだろうが、見あたらない(自分で探してね)。まずは、基礎資料の収集だ。

それに佐藤郁哉『現代演劇のフィールドワーク』もとりあえず貸す。これはちゃんと彼女も購入してこれの続きを書く気持ちで修論を書くといいかも知れないと言っておく。昔の寺小屋みたいに、1対1で読み合うなんて姿をちょっと想像する、何だかおかしいが、きっと自分も勉強になるだろうなと思う。

そうこうしているうちに東京からユニバーサルデザイン事務局の北岡敏信主任研究員が大学に到着。京都橘女子大学教職員組合2003年度第1回教研企画講演『ユニバーサルデザインとスポーツ』〜一人ひとりが生き生きと暮らせる社会をめざして〜。

「誰もが人生のある時点で、何らかの障害をもつ一時的障害者である」という一般仕様をめざすユニバーサルデザイン。操作性、安全性、市場性、審美性、そして持続可能(環境)性を持つUD。
ただ、UDブームの陥穽として、「福祉と環境・景観・歴史性の対立軸」の問題はじめ、「無駄な公共事業の言い訳」として国土交通省などが率先して予算をNPO法人へとつけたがっていること、あるいは、「企業のブランドイメージ戦略」だけでしかない企業もあるという留意点もきちんと示されて、実にタイムリーな話だった。

これは学生たちにも聴かせたかったなあと思いつつ、UDの対極にある危険な道を下ったところにある居酒屋で楽しい懇親会。


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