Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》A man is standing in no man's land-2


vol.444.
5/4(日)
山下残ダンス公演『透明人間』伊丹アイホール(その2〜リニアを巡って)

ほとんど公演中、山下残はコトバを発する人だった。自分の心の中だけのコトバ。独白、独り言。のようなのに、これが他者のダンスを即発する。ダンスがコトバを誘惑する(とでも言っておこうか)。
ときに感情がコトバになる。コトバは出演者からもたまに発せられる。でも会話ではない。高速に動く映画のシナリオのコトバもある。

たとえば。
《右の太ももの付け根が回転する。右の腕の内側がしびれる。左側の首が短くなる。ひじで骨盤を押す。ふたたび町を歩く。やくざとすれ違いざま肩があたる。殴られる。蹴りかえす。拳銃で右足を撃たれる。左足も撃たれる。負傷した右足を肩で背負う》・・・

呆然リセットの柿尾優が剽軽な味を出している。よく動く、あるいは動かされる。山下残より12歳下の同じ戌年の藤田一を残は弟のように思っている。納谷衣美のぐにゃぐにゃになる骨の動きを残は正確に記述しようとしてコトバが身体を追いかける。が、身体がコトバを置いてきぼりにすることもときおりある。

手話は同時にコトバを発せられるので、リニア(線型:紐につながったように単線的)にしか発せられない口話よりも同時並行的にいろんなことを言えるということが載っていた雑誌のことを思い出す。

じっとしていることもダンスだ。宮北裕美は花を一輪もったまま、ずっと静かに佇んでいる。そのときコトバの世界は何もいえずに口を閉ざす。コトバが沈黙するよりも、動かない身体の方がよく伝わることが多い。

沈黙は雄弁になってしまう。不動も雄弁になることがあるが、不動のままに、「静かにあって語る」ことも可能だ、ずいぶんと稀であるが。

だから、ダンスの方が容易い、のである。コトバよりもダンスの方が早く生まれたのかも知れない。でも「それがダンス!」とコトバがそこでダンスを指してみんなに言わないとダンスはダンスとして認められない。だから、コトバはずるい。実に巧みな特権を持っている(ぼくのコトバもそうなんだ。いやになる〜ふりをするのもコトバ)。

ではダンスの特権は何だろう。コトバで操られない身体の要求行為か。
それだったら労働争議のデモだ。デモと言うより、ダンスのサボタージュだ。

“ところで、エヘン、みなさんモンタージュとポタージュもサボタージュの仲間であります・・・”てな具合に、コトバは仲間を捜す。意味の仲間と音の仲間、あるいは字体の仲間。コトバは別のコトバを呼ぶのだ。
ダンスも別のダンスを呼ぶ(のだろうか、やっぱり)。というか、身体の動きの仲間がやってくる(のだろうな)。仲間でない身体の動きをあえて探すとシュールリアリズムダンスになるのか。

それはともかく、コトバダンスはリニア。身体ダンスはノンリニア。だからコトバダンスを複数のダンサーが共有し出すとダンスはコトバよりもずっと有利になる。ふとラジオ体操をしている指導者のコトバを思い出す。あのコトバがあるといい加減な記憶でもみんなと一緒に腕を大きく回したり腰をそらしたり出来るのだ。でも体操はダンスよりも単調だ。ダンスは体操的生真面目さを持っていない。

ダンスは逸脱する。コトバに縛られたくないから、ときおり山下残的ダンスコトバだけが空しく宙を舞うこともある。でもみんなは優しいので気を取り戻してまた残とダンスを始める。世界を知るために、乾いたダンスの行為を記述する、あるいはダンスを指示するコトバによって、動く身体と共に世界が現れる。

きちんと観たことはないような気がするが、詩劇というのが何となくあることを知っている。けれど、「詩踊」というのは、きっと世界には存在しない。いや、コトバを舞うのは太古以来、神のコトバを下ろすためにあったということだから(舞うと申すは親戚関係だとある有名な民俗学者から聞いたことがある)、「詩踊」というコトバだけがまだないだけで、昔から実はどこにでもあったのかも知れない(じゃあ、いまここで「詩踊」としようか)。

おやおや、また同じようなことを書いている。堂々巡りだ。ダンスはコトバ(による思考)のように同じ所を舞うことはあまりない。コトバよりもずっと時間という所ではリニアだ(普通「一回性」と表現されることでもある)。おっと、少し前にダンスはノンリニアと言ったばかりではないか。

コトバとダンスのリニアさはその入れ物が違うのかも知れない。時間においてリニアなダンスは、空間ではノンリニアである。思考によってリニアなコトバは時間においてはノンリニアであり、書かれたコトバは書物という空間においてリニアにもノンリニアにもなる。語るコトバでは空間的に同時に発せられるとなかなかダンスのようには同時に聴くことが出来ない。だからリニアだ・・リニアについてはここでとりあえずやめておこう。

それにしても右手と左手のダンスは秀逸だった。そして世界における政治批評であるとともに、極めて個的にエロチックだ。

残くんが「可愛いギャル」というコトバを発することが出来るなんて思わなかった。コトバは演じることができる。演じさせることもできる。ダンスももちろん出来るのだが、どうしても踊っているその本人にダブって観てしまうから演劇の方が嘘を付くのが容易い(・・おっとっと、演劇とダンスについて考えるのはまた今度にしよう)。

最後の質問(そして最初からあったかも知れない質問)。
ところで誰が「透明人間」か、ということ。
あるいは人間を透明にするのは何かという質問。
透明な人間がいるならば不透明な人間もいる。
人の間が透明であることを巡る質問なのかも知れない。
人と人の間が透明なときと不透明なときがあるとして、
いつそれが透明になるのかと置き換えて質問してもいい。

ぼくはダンスが始まってから50分して、すーっとある考えに到達した。
でもそれはあまりにも平凡だったから誰にも言わないでおこうと思った。
でもついJR東西線のなかで気を許して隣の芳江に話した。
すると空気の隙間に潜んでいた透明人間に聞かれたような気がした。
透明人間もその解答が気になっていたのだなと思った。


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