Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》JUJUBE(nathume no mi)


vol.456.
6/29(日)
劇団八時半公演『棗の実』心斎橋ウィングフィールド

今日は3回生(京都橘女子大学文化政策学部)の芸術文化鑑賞演習の日である。
京橋のアフタヌーンティーで途中下車してささやかな手みやげを買ったあと、長堀橋下車。お腹が空いたので心斎橋ウィングフィールドのそばに出来たスーパーで弁当を買い、京都新聞に載った『棗の実』(原作:東理子、脚色・演出:鈴江俊郎)を紹介する記事を学生数分コピーしていると、すでに何人かが店内をうろうろしている。

鑑賞を実際にする校外学習の参加者は今回も多かった。昨日を入れると27名だから、校内では考えられない参加率だ。ただ、お値段も中高生並にしていただいて、かつ1000円の援助が大学から出るのだから至れり尽くせりだから当然とも思えるが(ぼくはその分立て替えたり名簿を出したり領収書を書いてもらったり、と面倒なのだが)。いままでほとんど来ていない学生もいて、その一人は実際にお芝居をしているらしくて、それを鈴江俊郎さんを囲むアフタートークではじめて知ったりした。

うちの学生が24名入ったこともあって、ウィングフィールドは満席となる。劇団ジャブジャブサーキットのはせひろいちさんはじめみなさんの顔もあり、有名人(演劇の基礎知識チェックに出したからなあ)はじめ、濃い演劇空間を経験出来たのではないか(特にぬいぐるみも飛んできた前席にいた連中は)と思う。

ただ、『棗の実』のお芝居が始まって(13:05〜14:46)、タイミング悪く暗闇になった直後にごそごそ入ってきたのもうちの学生たちだ。これはずいぶんと迷惑をかけたと思う。

さきに授業としてビデオで『火花見たいに』を見ていて、終わりに鈴江さんのトークがあり、みんな興味を持って見ていたこともよかったのだろうし、まず原作者の東理子さんが来てもらったのも、親近感が増してよかったのだろうなと思う。

ちょうど一ヶ月前に京都芸術センターで『棗の実』の稽古場まで見せていただき、またこうして本公演を観られるというのは、ぼく個人としてもとても幸せだし、原作者と演出家のお話をビフォーとアフターに聞けるというのもはじめてのことだ。大学で演劇のアウトリーチ的な広がり(鑑賞者開発と言っていただいてもいいが)づくりを試しているので、答えがまず出るのは、7/11に彼女たちに書いてもらうレビューの具合によるわけだともいえる。

そして、これは授業評価だから、緩やかだけれど結局この鑑賞は「強制」なのでそれがお芝居を楽しむことと反するのではないかという疑念を一方で置きつつ、でもこれで単位が取れるのはラッキーじゃん!とか言って、小劇場演劇へのシンパシーを増そうという魂胆なのである。

すでに来年度もこの手でいこうぜと思っている。後期はCAP HOUSEに行くだけだから(でも立命館大でのアーツマネジメント論とともに京都橘女子大学でも同じ授業があるから、何らかの課題に芸術鑑賞レポートを入れることになる)、こぐゼミやアーツリボンゼミで自分たちの仲間が公演するのを見に行くこととか、何か企画を考えるのも楽しそうだ。

公演内容を書かないまでも、こうして楽しげに文章を綴っているのは、一つには、あれだけ内容をかいま見ていても、それを越える公演内容で新鮮な発見や驚きが多かったせいでもあるし、公演だけをいつもは観て書くから、書きやすいのだが、少し裏話まで知ってしまったので、どこまでがいつものレビューとして成立するか、自信がないためでもある。

それに「友だちいるの?」という台詞を聴くと、ぼく自身が反応するのではなく、学生たちがそれを聴いてどう反応するのだろうかと反応してしまう自分が今日はいた。やっぱり、学生の反応が気になる。ここでは鑑賞者のぼくではなく、鑑賞学習に連れてきて、学生たちがどう感じているかを心配している教員としてのぼくがいるのである(だから昨夜観ておくべきだったなあ)。

舞台美術(三輪まゆな)。劇団たちが作り込んだ美術装置である。お習字の標語がオカシイ。きっとこれが終わるとゴミになってしまうのは、仕方がないけどもったいないと感想(鈴江さんに教えてもらったので)を書く学生がきっといるだろう。

小声の歌の効果もよかった。「小さな手のひらにひとつ・・・」、短調のこの曲は小さいときみんなの歌で流れてピアノで弾き語りしたものだ。暗転のときの間奏の音楽も、哀調あふれるギター音楽(狩場直史、山田聖子)だった。

レビューをここに書くと、そうそう、学生にはまずいか。ということも理由にして今回はひとまず何も書かないでおこうと思う。地域文化を大事がるのではない東北弁の効果とか、客席には見えない「しっぽ」の意味など、きっとみんな色々書いてくれるだろう。

それでも少しだけ:
正明(森田成一)は春世(福田尚子)とフィアンセ状態になっているが、手当たり次第だ。彼にとって、ホントの女性はお母さんでしかないから。智美(中村美保)は自分の子どもが自分のように勉強が出来ない(普通に幸せな子どもであるというだ)のが許せない。それは母子家庭になった理由がないからだ。

あや(東理子)はしっぱが生えて死にたいと思っている。でも、貧乏だった菓子職人のお父さんを笑ったみんなを見返したいという意地は人一倍あって、そのためにしんどくなるだけなのかも知れない。4人の幼なじみのなかで、あやは正明とも関係がなく、この舞台では少し描写が少ないようでもある(智美の息子におしっこをかけられたり、従業員のエリコとの関係は描かれているが、ホントは第2部があってもいいぐらいの人間関係模様でもあるからだ)。

さとこ(大原麻子)が、地味で同じ出で立ちですーっとやってきて、赤井(金城幸子)が黙っているさとこに話しかけるのに応答がなく、赤井が自分で自分の周りでぐるぐる回ってしまうところとか、ツバメ(長沼久美子)とエリコ(厳愛玲)の屈折した関係の悲しさとか、こうして書き出すと、悲しいことばかりのようだが、諦観(一人で死ぬことが出来ない寂しさは溢れているが、集団自殺については少し仄めかされるだけに留まっている)の先にそこはかとない希望が見える舞台だった、とだけは書いておきたい。

以下は独り言:
棗と言えば、利休棗とかお茶の道具がまず連想される。赤い実がなっているのを観たこともないし、干した棗は北京で食べたきりだ。中国原産で漢方薬らしいし、万葉集でも歌われているという。ビタミンCなどが豊富で健康食品として凄いらしい。「夏芽」と書くのは初夏に芽が出るからで、秋の実として、このお芝居の基調となっている。ただ、ぼくが覚えているところでは、ツバメがエリコに棗をあげたが、それをエリコが拒否したというくだりで棗が言及されるぐらいではなかっただろうか・・。


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