Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Pepelo-pelog
京阪電車に乗ろうとすると、TAM研の上田千尋さんと一緒になる。OBPでの明日の芸術市「ART CHANNEL」の準備に行くのだという。ぼくはいずみホールへ。京橋から歩いて行くのは、この前に笙を聴いた時が初めてだったから、2回目だ。
OBPは舗道が雨に濡れて滑りやすい。
入ると知っている人がいっぱい。野村誠さんと林加奈さんも前半はのんびり。碧水ホールの中村館長は2階席で聴いている。客席通路から入ってくる身ぶり付きパフォーマーを予測してのことなのかどうか。
宇治市立平盛小学校の糸井登さん。彼も何かと忙しいのによく鑑賞しに来ているなあ(この前のアートシアターdBにも行ったと彼の日記にあった)。糸井さんの知り合いの女性が、こぐれ日記を読んでいると自己紹介される。この前の「竹響」コンサートで竹を配っていました、という。ぼくについて、思っていたイメージと違うといわれて、きっと、もっと若々しいイメージを持たれていたのかなあと思う。最近、自分でも鏡で見て老けたなあ、窶れているなあと感じるから、仕方がない。
コンサートが始まる。新・音楽の未来への旅シリーズ2003、第2夜『ガムラン「マルガサリ」』。企画監修の西村朗(作曲家)さんが登場。1994年2月の「ステージラボ」にカザルスホールで現代音楽の解説を西村さんにしてもらって以来だからだろうが、彼を見てつくづく時間の経過を思う。
前はまるまるとしていたのに、とてもスリムになっていた(ダイエット?)。でも10年ぐらい経っているからだけど、ちょっくら地味でこじんまりした感じがする。それは久しぶりに見るからの錯覚なのだろうが。ぼくもそうなのだろうな、加齢ということの残酷さを思わざるをえない。一方、中川真さんはまるまる。今日はおまけに赤のズボンが裾ヒラヒラしているから、元気さが強調される。
そうか、顔ではなくで西村朗さんのそのスーツ姿がよくないのだ。中年を過ぎるとスーツはどこかよれよれした人生を呼び寄せる。30歳代ぐらいだとスーツも結構さまになるし、若者のリクルートスーツはまだ借り衣装だから、滑稽な微笑みを与える。だから、45歳ぐらいで「西洋式スーツ脱ぎ棄て式」をしたらどうだろうかと思う。中年のための新しい冠婚葬祭を作りたいな(厄落としとかではなく)。
でもどんな衣装を替わりに身に付けるかが問題になるか。その一つの候補に中川さんのようなインドネシア衣装があると思う。派手だし。赤を着るのに還暦まで待つ必要もない。一方、和服というのももう一つの重要な選択だ。若隠居志向ね。和服と草履でゆっくりと歩いて、それだけで悠然とする。
全6曲の内ガムランの伝統曲は3つ。一つには舞踊がついている。耳中心になっているので、どうしても舞踊があるとつい意識が散漫になる。それを避けるように目をつむっていて、ふとあけるとまた同じようなシーンがあったりする。
その優雅さがいいのだと頭では理解しつつ、どうもぼくに伝統芸術を選択することを躊躇させる理由がここにあるのだなあと漫然と思いながら、ポーズの多い踊りを眺めている。
ヨハネス・スボウォ「バガスコロ(太陽)」はしゃきっとしたメリハリのある作品で、だから節々で自分もしゃきりとなる。対照的に柔らかな声だけの部分は、演奏はそこでしているのに、100メートル向こうの草むらから声がしているように錯覚するほどだ。太陽がのぼりだすときのもやもやした空気の揺らぎ感がよく出ている。
マイケル・アスモロ「ブランギ(虹)」は、より現代音楽的でしかも客席の通路を通るパフォーマンスが重要である。パフォーマーは一つのフレーズと一続きの動作を与えられていて、それを繰り返しながらステージへと集まってくる。声の集合、仕草の音楽化。
転換の時ぼんやり見ていると下田展久さんがステージづくりをしていた。シャンデリアの間にあった3つほどのスピーカーがガムランに相応しい音環境を作っているのだろうか。
コンサートホールにおける声明とか、伝統ものと西洋の入れ物との関係にいては、いつも違和感を持つのだが、今回はあんまり感じなかった。マルガサリは演奏だけでなく、メンバーの人間性自体が柔軟だから、野村誠の新作「ペペロペロ」だってススイノスイでできるのだ。
それまでの5曲と違ってあたかも稚戯のように演奏するのは、よほど自由に構えないと難しいと思う。面白がれない中途半端なクラシック音楽集団のパフォーマンスほど、いらぬ羞恥心が災いして見れないものはない。
もちろん、中川真さんの天真爛漫に野村誠、林加奈のリードがあってのことだろうが、マルガサリは本格的にオカシイ、キレイに壊れている。インドネシア人のロボットダンスももっとオカシイ(伝統舞踊よりはずっとスピーディーな4人のダンスもなかなかに見所あり)。
「ペペロペロ」を聴いて見ているといろいろなものを連想させる。
CMの連呼コマーシャルのことを思っていると、昔懐かしい路上の売り声へといざなわれ、生卵とゆで卵、温泉卵がモロヘイヤーとか、まごまごした孫の扱いへとあっという間に飛ぶ展開には、ほとほと笑って楽しむしかないことを教えてくれる。客席ではまっさきにやっぱり女性の方がその諦観へとたどり着いたようで、思いがけない笑いは女性陣、それも初老の女性に多いのが嬉しい。
「ペペロペロ」の終わり頃、ガムランに演奏者が全部隠れて、チンとか演奏するのを見ていると、懐かしい人形劇を見ているようにも思う。トッポジージョとか。演奏技術がせっかくあるのに、ここではそんなことはどうでもいいのよ、と言われている中でやっているわけだ。それはすごいことだとまた思う。
荘厳さとクロスする可愛さ。
たわいないことが過剰になり、
意外感を連続させることで、
アーツ度がアップする。
抜けるためのバカバカ回路。
飽きさせずに綴る機知。
ガムランから芽が出ても、まるで慌てず、
ちょっと休憩してから考えようとばかりに、
みんなガムランに顔をつけてお休みなさい。
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