Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Ensemble Sonne-dB
今日はのんびり出来る。頭の毛がまばらに伸びてしまっているので、芳江に頼んで散髪をする。手拭いを取ったときのバッドイムプレッションを少しでも減らすためでもあるが、気持ちよく刈り取られた自分の頭の皮を頭蓋骨の形にそってなぞっていると、とても不思議な気持ちになる。(この内容は「こぐれ日録」を参照してください)
1つだけの授業とTAM研をすませ、大学の門を出てぶらりぶらりと坂を下りる夕方。
ふと山本禮三さんの庭をみると、今日収穫した南瓜がごろんと転がっている。無人野菜お裾分けコーナー。300円。濃い緑の模様がぼくを呼ぶ。ガムラン楽器のような突起が、緑のボディーから動物のように盛り上がっていて、南瓜の花の色のままに凝縮している。
77歳のあの山本さんが自分のあの畑で収穫した南瓜だと思うだけで、気持ちが丸く温かくなる。もちろん美味しいだろう。うちの大学の南瓜もこんな深い色を出せるのだろうか。
500円玉しかなかったので、南瓜の他に万願寺とうがらしを2袋買う。これから新世界へ行くのだが、沙羅双樹のポスター(とりふね舞踏舎『バッケ-花咲く乙女たち-』のポスターを三上賀代さんのゼミ生であるはなに掲示を頼まれていたのでこれと張り替えて芳江のおみやげにしようと思った)とともに、南瓜やとうがらしも新世界へ移動することになるなんて、山本さんも想像できないだろうな、もちろん。
アートシアターdB。Dance Box 《dance Independent vol.97》。19時37分から。アンサンブル・ゾネとしては、フェスゲのアートシアターdBははじめての公演場所である。
ほどよく満席。大谷燠さんが言うようにトリイホールの時に比べていつもダンスボックスは客の入りがいい。それにいままで見たこともなかったという感じのグループが結構目に付く(今日も若い男の子たちが、間違った!という背中をしつつそれでもびっくり体験を繰り返しながら座っていた)。
アンサンブル・ゾネ。岡登志子さんの旦那さんがちょうど後ろに座っている。今日は舞台だけを見れるので楽しみですよと言っている。確かにそれまでのこと(稽古とか色々な準備作業)をよく知っているとおちおちのんびり客席に座っていられないからなあ。ふと、彼に万願寺とうがらしをプレゼントしたくなって渡すと、いい匂いがしますねとすぐに反応してくれる。
岡さんのダンスに京野菜とかとうがらしの匂いは合わないかなとも思ったが、旦那さんにそういう嬉しい反応をしてもらうと、アンサンブル・ゾネの生活空間がわーっと広がる気がする。そういう目線で眺めると抽象的で禁欲的なダンスだと思ってみていたぼくが見落としている部分がきっといっぱいあるのだろうと思えてくるから、じつに不思議な「唐辛子効果」だ。
今日は、二つの作品がちょうど30分ずつ公演される。初めは女性二人のデュオ。『夜の海』。構成・演出・振付:岡登志子。だが彼女は登場しないで、ゲストの加藤文子とゾネの伊藤愛がほぼ同型のスタイル(背格好も同じぐらい〜岡さんも同じぐらいだし、そこに岡さんの目立たない何らかの主張があるようにも思うのだが)で登場する。
デュオと言ったが、最初と最後はえんじのワンピース姿の加藤文子が一人になって踊っていたので、薄いサーモンピンクのワンピース姿の伊藤愛は加藤文子の海に映ったもう一つの加藤の姿なのかも知れない。
二人になったからといって、敵対したり争ったり融和したり対話したりは決してしないダンス。ただ吐く息の分量が二倍になり、踊っている自分の姿が相手の動きによってよく分かるという効果が鮮やかに生まれるばかりだ。
黒い布が使われる。影を濃くするつもりなのかなとはじめ一直線の影を思って布の効果を考えてみる。照明は岩村原太。彼の前の床から当てる影の効果は、黒い周囲の壁を輝かせる。
素なdBをいかにステキに見せるかが照明家の腕の見せ所だよと言っているようだ。
フローリングの床もとてもキレイで、後半にダキソホン(ちょっと名称違ったかも?)とギターイフェクトの内橋和久が操作盤を置く台(8階のブリッジにあるものだ)と同色で、まるであつらえたように舞台美術を構成していた。
今日もまた無理な表現や意味性を極力削ぎ落とした繰り返しのダンスというゾネのプリンシプルは健在だが、布を使った4つの素足のダンス部分はちょっとそれをも逸脱する可愛さだ。Fritz Stterieの音楽(音響は秘魔神。はじめの三連符の繰り返しが印象的。
後半の岡登志子の即興『Improvisation』のときにも思ったのだが、動きが洗練される方向よりも、生き様を抽象化する方向にあるのではないかと感じる動作の反復だった。ここではいかにも相応しくない形容詞だろうが、暴力的という言葉が不意に出てくる。
暴力的というと激しい対人効果を与える動きと思われるかも知れないが、そうではなくて、自分の内部に向かって、でも自嘲的でも自傷的ではないが、ある叱咤をするような暴力性をそこに感じていた。
後半の岡登志子のソロでは自分を奮い立たせて(でも足を伸ばして座ったままで)、腕を下に下ろす繰り返しで少しずつ前進匍匐するダンスというか行進というかパレードが、まるで絶えることのない漣のようにやってくる。でもそれは小さな波紋しか生まない、実に遅く行きつ戻りつするような、しかも誰も見ていないようなパレードとしての漣である。
そう、彼女たちのダンスとは内面の隠された嵐を隠し通せなくなって一瞬に闇の中からこぼれだした動きのことを言うのかも知れない。漣のダンス!そして、それは、まだ生まれ出せていない何かを探り出す行為がたまたまダンスと呼ばれたり、音楽と通称されているだけなのかも知れない、そんなことを岩村原太の照明も考えていたのではないかなと思いつつ、明日は早いので、彼の姿を確認しながら、禮三さんの南瓜を持って八幡へ帰った。
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