Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》death dance&HOKI-STAR
パンプレス46号の原稿を書いている。はじめ、アウトサイダーダンスという標題で、いま近江八幡で始まっている障碍者ギャラリーを枕に、この前の山科地域の障害児と介護者のためのダンスワークショップを中心に書こうと思った。
でも、けっきょくパンプレスの「踊りまわり」エッセイとしては、この前の映画『地下の民』のなかの「死の踊り」について書くことにした。死に至る踊りというのがあまりに強烈だからだった。「限界舞踊」というときの「限界」の意味がここではとても重くなる。生命の限界という意味が重なるからだ。合わせて、生者と死者の境がなくなってしまう日本の盆踊りについて、続けて記述することにした(葬送としてのダンスの風俗は世界中にあるようなので、これはこれで調べていきたい)。
それは、ちょうど旧暦のお盆の季節に発行されるからでもあるし、雑誌『SOGI』75号(表現文化社)にはさまっている『SOGI』通信No.7に碑文谷創氏が「お盆−この不思議な時空間」というコラムを書いていて、つよく感銘を受けたからでもあった。《盆踊りは、本来は訪れた精霊を慰めるために行われたという。・・手ぬぐいや笠をかぶって顔を隠し、踊ったりするのは、踊り手が新仏のつもりなのだという。盆踊りは、生者も死者もなく、一緒に楽しむ空間を作りだしてくれる行事であったのだ。・・》
ほんとうは宮沢賢治の童話「おきなぐさ」もこのエッセイに使いたかった。「奇麗なすきとおった風」がやってきて、おきなぐさ=うずのしゅげが天の方へと飛び立つ(死への旅立ちの)瞬間の記述に、「まるで踊るように」とあったからである。
《うずのしゅげは、光ってまるで踊るようにふらふらして叫びました。
「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました。」
そして丁度星が砕けて散るときのようにからだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のように北の方に飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のように空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんの一寸歌ったのでした。》
大阪市立芸術創造館へ。清流劇場『ホーキ星の出た日』作・演出:田中孝弥。ここに描かれているのは、小さな砦としての家族、そして劇団。対極には米軍基地を受け入れざるを入れない日本の地方都市やヨーロッパの魔女狩りの歴史と現実がある。清流劇場は燐光群と同じように、社会派の演劇への道を誠実に歩き続けていた。
何も大きな美術のないステージ。最近の清流劇場はこのような雰囲気が多い。イギリスのリージョナルシアター、そこでのコミュニティ・シアターというのはこういう感じなのかも知れない。
19:35〜20:52。時間もこう書くといつもと同じぐらいで、そんなに短いとは思われないかも知れない。でも、今回の公演は、どうも腑に落ちなかった。つまりこれで終わりということがどうもまったく予測できなかったのだ。
確かに長々と饒舌に演じ続けるお芝居というのは見苦しい。もっと観客に判断を委ねるべきではないかという蛇足付きのお芝居も多い。どのように余韻を残すのか、余計な解説やネタバレをするぐらいならば、きっぱりと短くしっぽを切り取ることも大切だろう。でも、今回の舞台はそんなようにも思えない。明かりが客席共々点滅してあるクライマックスに来たことは分かったのだが、ちょっと油断している間に役者はすでに挨拶の姿勢で立っていた。
大きな布を真ん中に敷き仮構のステージとするところから舞台は始まる(美術:池田ともゆき)。赤色が強く目を刺す「日の丸」の布。オルレアンの女を巡るお話しは、劇中劇の形を取っている。「ジャンヌ・ダルク」を処刑する裁判のシーンから始まるが、誰も「ジャンヌ・ダルク」という名前は使わない。
ステージの奥や下手隅に置かれていた丸や三角のような白っぽいものは、裁判官や皇子、司教などがかぶる帽子だった。それをかぶることで役柄が特定する。劇中劇のなかで、ジャンヌ・ダルクの記憶を再現する劇(劇中劇中劇)があるので、この帽子を取り替えることで、役者は役を演じかえることになる。帽子は紙製でとても軽く、その役柄というものが、偉そうにしているけれどたいしたことではないのだということを象徴しているように思える。
衣裳は普段着。断続的に爆音がする。ここは米軍基地のそばの練習所(何かの倉庫のようなものかも知れないし、基地のなかを貸してもらっているのかも知れない)。劇中劇の部分は時にそうだが、滑舌もはっきりして聞き取りやすく、主人公であろうカオリ(劇中劇ではジャンヌ・ダルク役、船戸香里)の台詞まわしは特に堂々としている。
二重に社会問題が扱われている。劇中劇では国民を扇動したという濡れ衣で、自分たちよりもずっと人気のある自国の尊厳を説くジャンヌ・ダルクが処刑されるが、オルレアンの地を守るべき皇子はぐうたらで外国の支配下になっている状態が提示される。これは明らかにイラクにいるアメリカ兵のいま、米英支配の混濁した世界状況がはめ込まれている。
一方、主人公のカオリとその両親の関係から、日本の米軍基地問題が浮かび上がる。どうもカオリは父の子どもではなく、母親が日系米兵にレイプされて生まれた子どもだったらしい。それがはじめて父親から伝えられる。それは母が隠していた離婚届をたまたまに父親が見つけたからであった。基地関連の仕事が多い街においてはどうしても米軍兵の罪は隠蔽される。そういう時代であったことも確かだろう。
母はずっと離婚を覚悟していた。演劇の練習においても、休んでいる神役の役者に替わって、神を演じる(台本を読む)ことだってできる母。これに対して父親はすごくおどおどしているだけだ。娘の目を一度だって見られない。この父親が劇中劇とどうシンクロするのか、きっとどこかにそれがあって、そして二つの社会問題(魔女狩りと基地レイプ)がクロスし動き出すことを期待していた。だがそうはならなかった。まだ物語は物語られ尽くしてはいないのではないか。出だしがとても素敵なだけにまだまだこの続きがあるように思われて仕方がなかった。
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