Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》talk to her & live in NON
京都みなみ会館のロビーは夏休みに入ったからか賑わっている。午前中はアンパンマンの映画。ずいぶん続いている『トーク・トゥ・ハー』の人気もなかなかのようで、アベックやOL二人連れなどの列が早くからできている。スペインやフラメンコは中高年にどうしてか受けるから、そんな風な観客も多いけれど客層は女性だけに偏らずにまんべんなく散らばっている。
ペドロ・アルモドバル監督、脚本もそうだ。飽きさせない大胆な展開。過剰なまでの豊穣な音楽。できすぎの設定や偶然も、メロドラマの定式をふまえながら、そのあくどさを情熱に替えてぐいぐいと進ませてくれる。もちろん、ダンスの暗喩や劇中サイレント映画(これももちろん創作だ)のシュールさが何襞もある意味作用を用意して、シンプルなメロドラマではない。
昏睡状態になった女性への男性の一方的な愛。一方は献身的だが偏執的な愛、他方は苦い三角関係への警戒からなかなかに進まず阻まれてしまった愛。そして、愛が成就しない男ふたりどうしの友情(いくぶんホモセクシュアルな仕草もある)。一方の男ベニグノは女アリシアを助けて自分は自死へと追い込まれ、他方の男マルコは女リディアの死後、孤独な自分を変えることはできない(ラストには、客席にいるアリシアとマルコに明かりが点る少し含みのあるシーンはあるが)。
ピナ・バウシュのダンスシーン『カフェ・ミュラー』を観るためにだけでも来るべきだろうと言った人がいた。ホントにそうかも知れない。冒頭のイスを取り除く男の姿はとても印象的である、老女のダンスを成立するための条件をこうもきちんと見せているダンスも珍しいし、これが映画の内容の隠れた意味への興味を深めてくれる。
ダンス公演の幕が開くのが、劇中劇的であるとともに映画の始まりであるのがにくい。最後にもピナ・バウシュとブッパダール舞踊団のステージがある。波のようだったと観客が感想を述べていた。ペアでチークダンスのようなものを何組も列をなして踊るシーンは舞台で観たなと思い出す。一回限りのシーンをまた映画で思いがけずに見るのも新鮮だ。ダンス公演を扱った映画を調べるのも面白い。そうそう、タイトルロールなどもとても美術的に奇麗でしかもスペイン的な過剰気味色彩の特徴がよく出ている。
ピナ・バウシュとともに、ブラジルの偉大な歌手、甘い声のカエターノ・ヴェローゾの歌も、ブラジル音楽ファンにはたまらないのかも知れない。家にあるCDのジャケット写真の彼よりは、ずいぶん渋い映像だったけれど、声は甘く若く、それがまどろみの映像故に、マルコが目覚めたときの現実とのギャップを大きくしている。
4年間眠っているアリシア役の女優は、ちょっとダンサーの身体じゃないなと思う。でもペニグモ(片思いの看護士)が手足をマッサージしているのはダンス的ではある。動かない体を動かすこと。ここには面白い振付やワークショップの可能性があるのかも知れない。睡眠術とダンスとか、脳幹に関わる身体刺激ワークショップとか。他方、ダンスステージを見て泣く男、マルコ(ジャーナリスト。アルゼンチンの俳優が演じている)が看護しようとした女闘牛士リディアの動きはもちろんダンスと背中合わせだ。結果として悲劇が起きれば、このように「死の舞踊」になってしまう。これも受け身のダンスである。
夕方は「ライブinのん」(ひがしのひとし、上野茂都、三上ゆうへい、小暮はな)である。19:45〜22:46まで。休みなしの実に濃いライブだった。始まりは、ひがしのひとしのトークから。PAとかいうことばすら知らないときから歌っていたという東野さん。ささやく声はもちろんMCする言葉にも深い想いが皮肉や照れなどのなかに見え隠れする。
まずは、なかなか歌わない昔の自分の歌を歌うといってひがしのひとしのソロ、3曲。自分のいまに向かって歌うとともに、これからのうたうたいへと伝えようとする心意気。新宿のフーテンたちに取り込まれたときの歌やチベットの火葬と鳥葬を暗闇をずっと行って夜明けとともに見たときの歌。
次に若手の登場:まず三上ゆうへい。座って歌う。マイクも何もないのでほんとの弾き語りってこんなんだなあと思う。10曲。はじめなどは、すごく言葉を大事にした短い曲で、いつものような少し饒舌気味に酔っぱらっていく感じの歌とはだいぶん違う。勝負しているなあと言う感じがずんずん伝わってくる。最近の曲が多いらしいが、そのなかにかなり古い曲も混じっているという。
草野心平が好きだと言うことで、魚も人間なんだという詩につけた歌とか、サンマが焼かれて死んだまま口開けてあくびするようなシュールなものもある。ヒグラシと一緒にいて押入に閉じこもってしまう閉塞感ただようものや、グーとパーを出す間の一瞬に世界を見る歌など。「雨と春巻き」は、彼の父親のガン通知のときに、人気のない中華料理屋の皿に残った春巻きをみながら、ラクダ幻想へとつながる歌で、ジンとこころ打つ。最後は彼の代表的な「踊り子」。少しレトロな哀しさが余韻として残る。
小暮はなは立って歌う。こころもち三上さんよりは前に出て。9曲、大体30分だ。MCはほとんどなかったが、上野さんにやってと言われた「はとぽっぽ」のときに話す。でも、上野さんのことを話すのにはなは敬語が使えずショック。
1曲目の「黒と白のダンス」はリズムがうまく出て、それからずっと滞りなく流れたみたいでほっとする。「泳ごうか浮かぼうか」「静かな教室」へと激しくなって、ぽんと「背骨の音」で、少ない小さな音に落とし込む。「はとぽっぽ」で少しほほえんでから、「蚊」と「愛たいな」という少しご無沙汰の歌。最後の2つは最近の曲でしめる。まあ、こんなところだろう。「カランコロン」は消えていく感じなので、ラストには適していた。
東京からのゲスト、美術の先生でもある上野茂都。三味線でいまを歌う「うたうたい」は男性では彼しかぼくは知らない。明日は東京で授業だと言うことでもあり、少しだけといいつつ(3日間連続でお疲れなのにかかわらず)、9曲をプレゼントしてくれる。茸節のように、しいたけさんやしめじさんが出てきたり、毎度毎度飯の支度ばっかりしていたり、そのシュールな世界にはまたまた圧倒されて、笑い転げさせられる。今度発売されたCD『瓶の中の球体〜フォークパルチザン』から上野茂都がソロを取った「朝日楼」は、しんみりと三味線で歌われる。ニューオルリンズの人たちはこれを聞いたらびっくりするだろう。
軽く行こうかと誘われて悪い酒飲みにつき合わされる話や、だめス、だめスを口癖に言う男の話など、その諧謔性は現代の都々逸だったりするのだろうが、こんな唄を自分流に歌詞を替えて歌えたりできたらどんなに豊かな隠遁生活を送れるだろうかと、思ったりする。「たぬき」という唄の歌詞は帰ってCDを見ると山之口漠だった(ちょっと高田渡の「生活の柄」みたいだと思ったらやっぱりそうだった)。
「ひがしのひとしwithゆうへい君&はなちゃん」でいくつか。この前の七夕コンサートの再現だ。黒ビールばかりがステージで消費される。三上さんはハーモニカ以外にギターも弾いていた(はなはコーラス。歌詞の内容みたいな色香はないが、それも愛嬌だろう、ま、オヤジとしてはそれの方が安心だし)。最後の最後は、ひがしのひとしのソロ。サーカスのアイスクリーム売りのおじいさんと坊やの少し寂しい話。
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