Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Dance Circus23-3
旅の途中、新大阪駅で買った『漢字と日本人』(文春新書198、2001、高島俊男)は、読み出すととまらないほどおもしろい。でも、ワープロでいま書いているこのこと自体の問題を指摘されるわけで、途方に暮れるのも確かだ。それに、いまカタカナ語を漢字にしよう運動(政府規制)があるけれど、それって何にも変わらないということがよく分かる。
つまり「権利」という漢字を「right」の訳として明治時代に作ってしまったわけだが、この「権利」という言葉を使っても、結局は中身的に「right」と言っているのと同じなのだから西洋化した頭はそのままである。だから、いまのカタカナ語漢字化運動っていうのも、結局ごまかし(あるいは同音異義語を増やすだけの造語運動)が余計に加わることになるだけだといえる。
この本にも「藝(ゲイ)」を敗戦後「芸」に略することによって、もともとあった「芸(ウン)」(香りがたちのぼる草。「芸亭」は奈良時代末期にできた日本最初の図書館の名前)という言葉を使った単語と、「藝」(人が植えるの意味)を使った単語がごっちゃになってしまう問題点もきちんとあがっていた。
ぼくより若い人は、たとえば「體」が「体」の、「鹽」が「塩」の本字であるとかいうことがどんどん分からなくなっていることも困ったこと(本字ならば漢字の意味がよく分かって楽しいのに)だ。そこには、JIS規格の問題なども国語審議会という中途半端な漢字廃止運動の機関とともに問題にされていて、色々考えさせられる。
3日間の研修の帰り。新世界はフェスゲのココルームで少し一服。上田假奈代さんはお留守。ルームの男性に絵日記をかくようにいわれてかく。でもほとんど字ばかりの絵日記となった。「いままでの学者さんたちは〈インプロヴィゼーション〉とかいいことをいっぱいいいはるのに実際はどうして彼ら彼女らは即興音楽や即興ダンスを見たりしないのだろう?」といういつもの疑問を絵日記に記した。
さて、Art Theater dB、Dance Circus23の3日目。22時の部(20:05〜21:17。1時間以上かかったのは、場面転換が大変なのが多かったからだ)。
1)D・c・W「Herald」作:吉田累幾子。出演:林麗子、吉田累幾子。2)ミネラル「声を出して道を開ける」作曲・演奏:山尾圭介、振付・演出:川崎歩。3)MAZATTE(マザッタ)「私を見て!」作・出演:平田恭子、宮永照代。4)金終恩(韓国)「魂の炎」作:金終恩、出演:金終恩、鄭淑喜、柳善何。5)はっぴいすまいる「inner mind」作・演出:TEN、出演:KAORU、RAN、TEN。
以下、ダンスボックス通信用にかいた原稿『デュエットが3組、トリオが2組』をあげておく。
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ダンスサーカスの原点は一人が一人として10分少々そこに在り続けることができる覚悟であろう。この日はソロがなかったが、はじめの3組をみたら、デュエットというのも結局は一人がそこにいて、もう一人がその在り続ける「孤」を巡って近づいたり遠ざかったりすることだと思った。
そうはいっても、二人がそこにいれば何らかの関係性は生まれる。すぐに目につくのはビジュアルな対比だ。たとえば衣装。D・c・Wでは白と黒。白の人は黒の人に色とりどりの風船をつけられる。その風船を壊すことで二人の関係は大きく動く。それをダンスとしてどうして見せるか。風船の中の赤が白に付着する形で色としては鮮やかに見せたのだから。
ミネラルの二人は一見役割がはっきりしていた。一人は音楽を担当するからギターを持っている。だから山尾のギターと歌で振付・演出の川崎が踊ると予想する。ところがそんな主従を伴う予想はまるではずれた、二人は自在に声を出しあい踊りあったから。実に爽快な混じりかただった。彼らはきっと音楽とダンスの関係のみならず「声としてのポエム」と踊りの未来を開拓するだろう。
MAZATTEの二人の踊りは、聞こえない世界に独り独りが在るときに「私を見て!」と伝えるための試みである。3本の白いテープとメトロノームだけのしつらえ。左右が黒と白に分かれた女が発する声にならない口の動き(金魚のパクパク)と、赤い光りに照らされた黒い女の背後からの這いずり。まるで混じらない焦りのなかで、3拍子のメトロノームがひょうきんな腰の動きを生み出し伝えていく。
後の2組はトリオである。韓国から来た3人組は音圧の高いテープ音楽で伝統に支えられながら踊る。ここには独りの影はみられない。黒をベースに赤と白が混じる衣装も集団の帰結として生まれてくる。面白いのは手に持たれた道具だろう。僧舞では腕より袖の長い衣装を着て実寸よりも大きく舞うのだが、ここではスペクタクルで華麗な効果をもたらしている。
最後のはっぴいすまいるもトリオであることから孤の影は見あたらない。偶然衣装の色合いも黒と赤と白だった。ただ、おもちゃのピアノからうっとりとしたピアノ音楽と進むにつれて、高い運動能力に支えられた楽しいはじめの動きがスペクタクルとしてゆるむのがもったいない。きっと構成の工夫がより分節化したダンスを生み出すにちがいない。
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