Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》IMAI Norio&MONO


vol.470.
8/21(木)
今井祝雄個展「分身の術」LADS GALLERY
&MONO『京都11区』伊丹アイホール

大阪市内ではいま一番お店の動きがめまぐるしい南船場のギャラリー、LADS GALLERYへ。開口部分が大きくガラスの真四角な画廊。そこに、今井祝雄個展「分身の術」が設置されていた。夏の光りに白い画廊。そこに白い石膏で招き猫や福助、お多福、ダルマにビリケン(これは大阪にちなんで作ったということ)がずらっと並んでいる。

それだけで通りすがりの人の目を引いている。立ち止まる人がいれば、その白い石膏の招き猫に、おなじみの量産品フィギュアとしての招き猫として塗られていたもともとの陶片(皮膚のかけら)がランダムに残っている(埋め込まれている)さまが見えてくる。

どうして、こんな中途半端なことをしたのだろうと思った人がいたら、しめたもの。そのなかには画廊のドアを開けるだろう人も出てこよう。「分身の術」か、なるほど。ふむふむ。見ていれば否応なく一つのお多福ならお多福が13ピースに分身したのだなと分かる。でも、前の方のかけらならばすぐに気がつくが後ろの下の方ならば、鏡があることで辛うじてそういうことなのかが分かるぐらいの控えめなものではある。

ここに今井祝雄さん本人がいれば、きっと、これは招き猫を胸の高さぐらいにしてコンクリートに落とした破片をそれぞれにこのような一点ものにしたのですよと解説されるだろう。だから、招き猫が27ピースあるのは、27個もともと意図したのではなくそのときの割れ具合という偶然によるのだ。レディメードについての考えやコピーとオリジナルの境界性、あるいは偶然性を活かしたアーツなどいろんなことを考えさせてくれる展覧会だ。

画廊なのでコレクターへの対応があって、そのため、版画を創るとともに福助ならば20人の人が集まったらくじ引きで分有してもらうという(協賛コレクターになりませんか?と呼びかけている)。これが欲しいというような選択が可能な作品ではなく、20個に偶然分身したこと自体に意味があるから、そういう形になるのである。

つぎに伊丹アイホールへ行く。これからしばらくMONOの本公演がないので(作・演出・出演の土田英生さんが文化庁派遣かなにかで海外に行くからだ)、今日は丹野賢一のパフォーマンスもあったのだが、MONO第31回公演『京都11区』を堪能する。

意外性は少ないが、過去の作品をいろいろと思い出させる公演。「-初恋」のように、周囲から追い出されてしまうことになる彼ら彼女ら。これは反対運動であるのでアンチクリスマスを扱った作品とも響きあう。「きゅうりの花」でみられたむらおこしやまちづくりについての目線はここでは京都市観光特区による国家アイデンティティづくりという馬鹿馬鹿しい設定として引き継がれている。危機的な場面でも洒落を言ったり面白いことが起きてしまうこと。そういう場面設定は「その鉄塔に男たちはいるという」はじめいままでも随所にあったはずだ。

上から啓蒙するようなところやお説教、思想的な難しさもなく、それでいて笑いとともに時代批評を深めてきたMONOならではの舞台だった。俳優さんもいつものキャラを充分に発揮して、設定のテーマといい悲劇的シーンのなかのおかしさを紡ぐ細部といい、土田英生の手の内にすべてがあるという感じがした。

19:35〜21:02。はじめと終わりに京都市内の通りを覚える童歌が聞こえる。
「京都11区」というタイトルから、確か京都市の行政区は11あったはずだから、その一番つまんない第11番目の区を指しているのかなと思い、どうしても山科区のことを連想していた。でも劇中では「北崎町」という名前が舞台で、区の話はいまの内閣の政策である「特区」陳情として別の観点(特色あるまちづくりを国が指定することの矛盾)から考えさせられる。

また、この事件が頻出して廃墟となりつつある松崎町に住みついたカルト集団「宇宙の中の私」は、最近の尖ったものは白い覆いをつけるカルト集団がモデルなのだろうが、その名称からも、自分の居場所を見つけられない他地域出身京都住人たちや日本人顔のイタリア人と同じく、宇宙の中にしか居場所が見つけられない寂しさがよく出ているカルト名だ。

演劇ファンだけではなく、とりわけ、文化政策やまちづくりに関係している人が見るべき作品ではないだろうかと思う。もちろん、政治学を学ぶ人たちや国際関係について心悩ましている人にとっても必見である。ワイドショーのために記者ばかりがくる廃墟地、松崎町の有り様は、マスメディア研究にも役立つだろう。

人種主義(レイシズム)のばかばかしさを、「京都人」純血主義まちづくりという設定で徹底的に掘り起こしてくれているから。もちろん、それをそうあっさりとは解決できはしないことはいうまでもない(芸術には解決法まで表現する義務はないし、そうすると説教演劇になってしまうのね)。

自分の妻が新興カルト集団に興味を持ちだしたときに夫はどうしたらいいか。市役所のなかで差別されていると思っている公務員は、そのうちにその差別に戦う人たちと一緒になって行動することは現実には起きることなのかどうか(過去にはあったのだろうか)。イタリアにずっと育った両親がどちらも典型的な日本人のイタリア人はどこに安心して住まうことができるのか。

室町が襲撃(放火)の対象とされたのは、京都芸術センターが室町通りにあるからなのだろうか。室町に住む父親が放火で亡くなったことで、自分に禁じていた京都弁が出た喫茶店経営の妻は、今度はどういうときに京都弁になるのだろうか。京都の大学に来た他地域出身者がそのまま京都に留まって活動するときに、どれぐらいのプレッシャーが京都人から与えられるのか。・・・・

いいお芝居に共通だが、見終わってから自分の中で自問自答するもよし、友だちと話し合うもよし。さまざまなことを考え対話するきっかけがここには埋蔵されている。いずれにせよ、発掘するためには劇場に行かなくちゃいけない。


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