Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》ANGU-SHODEN:SEINENDAN


vol.474.
9/7(日)
青年団『暗愚小傅』大和高田さざんかホール・大ホール舞台上仮設劇場

東京から滋賀に来たとき、関西のアーツの分量ぐらいならば(関東の1/5ぐらいに思えた)だいたいはカバーできるだろうと思ったけれど、そのときは自分に知り合いが少なくて大切な情報がなかったからそう思ったのであった。

実際にはホントに小さな場所でとてもシャープな演奏があるし、隠れた場所の美術インスタレーションに驚いたり意外性に満ちたダンスが野原で踊られたりするから、そんな場所の秘められた行為を知れば知るほど、自分にフラストレーションは高まってしまう。

まあ、何かを選ぶと何かにはいけないのは仕方がないことだ。どれに行こうかと迷うことは楽しい悩みではあるが、正直困ってしまうときもある。今日も数日前までさんざん迷ったあげく、映画を見る日にしていた。

ところが、朝少しごたごたしていたこともあり、9時すぎに出かけること能わず。
そうすると午後から可能な場所ということになり、吉竹達雄さんからいただいたアルティでの堀米ゆず子ヴァイオリンリサイタルに出かけるのか(バルトークやバッハの無伴奏、それに原田敬子作曲による2つのヴァイオリンのための初演もあるという)、それともさざんかホールまで足を伸ばすかで迷ってしまう。日曜日はソワレがあるところは少ないので、マチネに関してこうして選択の時間が迫ってくるのだ。

吉竹さんには悪いなあと思いつつ、いつも案内をもらいつつその遠さで敬遠している大和高田市のさざんかホールに出かけることにした。ま、今日もまた青年団なので大ホールの椅子には座らずじまいではあるが。

というわけで奈良県の大和高田さざんかホール、大ホール舞台上仮設劇場へ。京都市東山青少年センターの西田さんと表さんがはじめてきて、どうして私たちにまで招待状をいただけるのかしらと言っていたが、お互い演劇やダンスを大切にしている場所だという認識がさざんかにあるからだろう、きっと。

青年団第45回公演『暗愚小傅』作・演出:平田オリザ。「伝」ではなくて「傳」なのがいま漢字にはまっているから嬉しい。「傅」は、「人から人へと事物をめぐらす」というところから。なお「専」は、糸巻きの象形で、糸をぐるぐる巻くところから来ている(そこで、一所を集中して占める意味に)。

15時から16時40分。開演前の注意で1時間40分ということだったが、この15時開始というのは、お手伝いの泰子さんが当時のはやり歌を歌って帰ってくるシーンからで、そのあとに青年団をみた人ならよく知っている独特の間が少しある。

4つの場面の間に時代が大きく変わる。そのために美術は白い(ということだった)。障子と天井の一部に少々木肌(ここだけ和風)。アフタートークでもしぼくが質問するとすれば、舞台の前に客席からあがれるような三角のでっぱり(踏み台)の理由(意味)について。これは、舞台から役者が下りるわけでもなく何かの象徴とも見えず、なんだろうと思っていて、それはささいなことだけど聞きたかった。

10年前のものをぼくは見たはずだ(もっと前が初演だったらしい)。とても好きだったし今日見てもその気持ちは変わらない。なんだろう、あんまりオリザ的演劇理論が前に出ていないからかなあ。有名人が4人も出るのだが(高村光太郎、高村智恵子、永井荷風、宮沢賢治)、オリザ自身の文学的解釈で一気に書いているところが好きだったのかも知れない。

これも聞きたかったのは当日パンフに「この芝居は、詩人光太郎の生涯について書かれたものですが、しかし、普通のお芝居とは、少し構成が違っています」とある「普通のお芝居」とはなんだろうということで、あとに「史実に基づく評伝劇ではない」とあるから、国語のテストならば、「史実に基づく評伝劇」がその解答になるかも知れない。

でも、そうだったら、「史実に基づく評伝劇」は普通のお芝居になるわけだが、評伝劇はそんなに普通ではない(あんまりみかけない)ように思えるし、短い文章のなかで同じことをオリザがわざわざまた書くとも思えない。だから、彼にとって何が普通なのかそれがぼくには分からないから(オリザ的演劇に親しすぎるからでもあるが)、これは聞けば良かったなと思う。

あと、アフタートークに出席していたひらたよーこさんにも質問があってそれはよかったのだけれど、ぼくならどうして平田陽子を改めてひらたよーこにしたのかはぜひ聞きたかった。少し前から変わっていてもうみんな知っているのかも知れないが、ぼくには新鮮で、青年団らしくない感じがおもしろく、明るい智恵子だったので、ぴったりだなあと思ったからでもある。

きっと青年団の役者で一番好きな役者は?とぼくが聞かれたら、ひらたよーこさんはじめベテラン勢はみんな好きだが、前に高村光太郎を演じていた(もうとっくにいなくなった)役者と、今日の舞台ならば、だんぜん松田弘子だろうと思う。ますます怪演的なオーラが出てきていて(そこまでは自覚していないだろうが)、隣近所の金石さんという、知識人の高村らとは少し階級が違う役どころ(「金」さんの通称名という解釈もできるかもしれない)を嫌みでなく演じていて、その声の大きさは、夏木孝夫(足立誠)が吹く体操の笛のやかましさに匹敵している。

夏木も文学者のみんなと同じように同人誌を作ろうとしているが少し山師的な人物でだじゃればかり。その彼がちょうど金石さんと意気投合している。この音(声)の大きさの共通性も巧みな演出である。また戦後南方から送られてきた笛を吹ける人とそうでない人という比較もおもしろいし、いいお芝居には切り口が無限に近いほどあって、この芝居も再演なのに新鮮な驚きに満ちていた。

なお、関西弁のほんまかいな、の本間さん(山村崇子)も夏木を好きだったということが後であかされるが、青踏社(これでよかったかな、戦前のフェミニズム活動の拠点)の本間春子という役どころはここではただ静かにいて(テーブルでも後ろ向きに座ることが多い)少しおかしなことをいう人になっているのは、どうなんだろうと少し思ったりもする(彼女をクローズアップさせることも別の芝居で可能かも知れない)。


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