Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》AZANAI-AI HALL
伊丹アイホールの『還る鮭たち企画』は、アイホールの演劇環境づくり、とくにその教育の情熱と持続力を検証し社会に示すとてもチャーミングな企画である。還ってくることにこれほど歓びをもって3つの劇団が公演するという事実だけで、アイホールという、公立ホールとしては希有な存在を浮き彫りにするのに十分である。
が、指導にあたった関西を代表する演劇人の温かい言葉や(大丈夫だろうかしらという親心とその反面手強い若手を育てたものだといういささかのライバル視)、この3つの劇団につづく人たちの集まりの厚さが、単なる観客であるぼくたちも含めて演劇に関わってきたことの幸せを綴ってくれるのだ。
誰も頼みもしないのに劇作家を志してやってくる彼ら彼女ら、バラバラな出自の連中の指導を名古屋から行いに来る北村想やその助手をつとめる人たち。演劇の工場ができるのだと聞いて集まって、そのうち役者志望なのに裏方表方までをやっていくことで自分の役割を見つけていく連中と、その連中と同じ目線でお芝居を作っていく文化振興財団のスタッフたち。
伊丹市内の高校生は高校演劇という枠の内外を自由に移動しながら、気がついたら演劇をクラブ活動とか自分たちのお楽しみでない地平で行っている自分たちに気づく。ふと水戸芸術館ができたことによって水戸市内から芸大に入る学生が増えたことを思い出す。そういう効果は十分に伊丹市にもたらされているのだ。
前振りが長くなった。[糾い〜あざない〜]第13回公演『ネクタルの音(ね)』作・演出/芳崎洋子。19:06〜20:43。いろいろ観るものはあったが、これをみて本当によかったと思った。それは、もちろん先に述べたアイホールの企画としての素敵さを確認できたからでもある。たとえば、岩崎正裕が紹介していることから類推すると、冒頭と後半の挿入の幻想的なシーンは岩崎率いる太陽族の系譜に繋がるとか、そういうことがわざとらしくなく思えたりするからでもある。
でも、そんなことよりも、ここの劇団の公演をいくつか観させてもらってきて、生真面目故のお説教臭さみたいな部分、説明が少し物語を動かしにくくしていると思っていた部分についてのぼくの感じ方がずいぶんと今回で変わったことがとても大きいのだ。
今回でももちろん「見えないモノに思いを馳せる」ということが冒頭からスズと名づけられた女によって直接的に伝えられる。あるいはまた日本人といっても異郷で思い描く日本の風景やサウンドスケープはばらばらである、というテーマ。これらは不器用なまでに直球なので、いままでそれをいわないでお芝居で作ろうよと思っていた部分があった。
それが、今回はまるでそんな偉そうな気持ちにならずに、それでいいのだよなあ、懐かしい浜辺の歌がちょっと気持ちよすぎるほどハモッてしまったけれど、そういう瞬間は「瞬間だから美しい」のだから、それはそれでいいのだよなあと思ったのであった。
人工の洞窟に吊された風鈴が日本風情のものではあるけれど、上部を戦車が通って音を鳴らす。この風鈴はハナ(西岡由起子)が持っていた唯一の日本的なものだった。「人工」であることは、後半になって分かってくる。ここは第2次世界大戦のときに日本兵が自決した場所であったのだ。
海外に住む日本人(バーを愛人によって開かせてもらっている女ハナと自分の手で売春ホテルを経営している女ヤヨイ〜小関道代とその親類ジュン〜小西久仁子)と、バックパッカー2名(マル〜佐藤あいとタマ」〜田所佳子)がイラクのような戦争に巻き込まれて日本大使館の人によって強制避難させられている。
次第に戦況が切迫してくるに連れて、その人を信頼できない気持ちになっていく大使館職員は、クニモトさんと呼ばれていて多分男性のようで、彼ともう一人障碍のあるジュンの兄弟という不在の男たちがこの女性だけのお芝居のもう一つのテーマにもなっているのかも知れない。「国元(あるいは日本の本)」という漢字(とその暗喩)がクニモトという音韻をもつ大使館職員名からは連想させられる。
そこにもう死んだ女が二人、あんまり生きている女たちと変わらずにいる。洞窟なのでそれもそんなに不自然ではない。一人はカンパネルラ(=透明な少年)のような叶〜石坂彩子。叶は「人間の盾」を志願してそれで亡くなったが、今度は「亡霊の盾」になって、おかしくなってナイフでハナを殺そうとしたヤヨイをハナとともに救う。
もう一人は60年探し当ててようやく戦死した兵士の骨に辿りついたスズ〜大山まゆ。「ネクタル」のようだとヤヨイがいうハナが持ち込んだ酒が、スズにとっては弔いの酒であった。スズの話し方が、どこか戦士アニメの主人公のようでかなり違和感をかもし出していると思ったら、60年前の幽霊という異界の者という設定から出たしゃべり方の工夫だった。
この芝居がいままでと違う点は、もちろん具体的な歴史的事実と時事モノを真っ正面からとらえている点にあることは明かだろう。が、具体的にその姿に現れているものとしては、ヤヨイ(ジャブジャブサーキットの小関道代が演じる)のリアリズム性が大きく貢献したように思う。彼女の現実が「慰安婦」問題という歴史をいまの時代に考えさせるテーマに変貌するのだ。
そのほか、バックパッカーの二人が少しコミカルな味を出し、自閉症気味のジュンを明るくするところなど、このお芝居が設定だけで終わらずに、作りながら人物が展開していった有様が見て取れて、そういう想像力が広がって観客にもいろいろな連想を生むお芝居(それがいい評判になっていく劇だと思うのだが)になっている。
ということで、かってな想像をしたぼくのつけたしは、同居している兵隊たちの白骨死体とはべつに、日々の小さな遺体ともいわれる自分たち自身がうみだす「おトイレ」の処理についてである。密閉した空間でその物体と匂いはどのようになっているのか。水道とともに廃棄物の処理のことを考え出すとまた違う物語が生まれていくのかもしれない。
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