Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》ITO CHUTA&HADAKA-NO-GEKIJO
気持ちのいい秋になった。
ゆっくりと朝出かけて立命館大学(衣笠)に向かう。三条京阪の駅周辺が変わってバス停は同じなのに少しうろちょろ。金閣寺への観光シーズンでもあり大学方面のバスに座るのはけっこう大変だ。学生も多いし。
無事第1回目の講義終了。初日が開けた気分だ。
i-bookを持っているから動きがにぶくなる。立命館大学の講義のあと(13時から14時半までだから)、ホントは京都橘女子大学に行かない日なので展覧会とかソワレまでの間、けっこう活用できるのだけど。
今日のソワレは心斎橋ウィングフィールドに19時半なので、まずなんばまで行って引き返す形で、KPOキリンプラザ大阪の展示を楽しむことにした。
『建築家 伊東忠太の世界展』。彼が学生のときからのノートやスケッチ、そしてもともと画家(漫画家)になりたかったということで、日本画やマンガ、とくに妖怪画などが展示されていて多元的な展示だった。思いがけず、豊富な時間を費やすことができる。
5階にあるビデオを見ていると、おお、平安神宮もそうなのかと思うし、梅田阪急百貨店の横に続く趣のある通路の壁画が伊東忠太によると知って、かなり驚く。自分が設計した建造物に象の彫刻を置いたりする余裕はいまの人たちにはあまり見られないものだろう。
お寺や神社関係、とくに本願寺関係の建物の設計が多く京都とも関係が深そうだ。設計したが出来なかったものとか空想、夢想が建築家のいのちなのだということがよくわかる。靖国神社やさまざまな銅像、記念碑などの作品をみると、近代日本国家形成と近代建築学が大きく関係していることに気づかされる。
イタリアルネッサンス時では特にそうだったのだが、建築家は彫刻家や画家、そして思索家や科学者を兼ねていたというか、そういう区分はなかったのだということがよく分かる。日本では一番ふるい美術館とされている大倉集古館のテーブルと椅子が展示されていたりして、総合的な術師としてのアーキテクトという存在がいまの日本には少なくなったとも思ったりする。
学者としては「建築」ということばをそれまでの「造家」ということばに変わって使うことを提案した人だそうだ。なるほど、こうして建築という用語が「アーキテクチャー」の訳語として形成されたことがよくわかる。やっぱり言葉を作ることはその概念が西欧アーツのコピーである側面をまぬがれないとしても、どきどきわくわくすることであり、そのために責任も人一倍存在する時代だったのだろうと思う。
造家ではなく建築ということで、現世の「家」だけではなく、浄土への入口であるお寺やお堂も設計=建築することができるとなるわけで、新しい職種は新しい用語によって生まれるということを明らかにしている。ぼくの興味からしてとうぜんだが、一番驚いたのは伊東家の墓を自分で設計していたことだ。自宅を設計する建築家はいっぱいいると思うけれど、自分のお墓を建築した人はどれほどいるのだろう。奥さんの父親のお墓はじめ、かなりのお墓の設計図面と写真があって、どきどきする、宗教的というよりも記念碑的なものだが。
お寺やお堂は同じほとけの世界といえど、広く社会に向かっているが、お墓は個人や一族のためだけのものである。彼方の家としての墓の設計はお堂よりもずっと小さくて、若い建築家による実験的トライアルもいろいろと可能なのかもしれない。建築界が墓石業界と組んでビジネスをするときが来るのかもしれないなと思いつつ、心斎橋筋を歩いた。
『裸の劇場』は、いいお芝居だった。多くの人、とくに学生たちに強く薦めるべき(関西ではすぐに終わってしまうけれど)公演だった。じつは劇場や劇団、演劇人自体を内容にするお芝居はかなり多い。書けないときにうちわものとして自分たちの劇団を題材にするという情けない公演もたまに出会ったりしたものだ。
でも、19年目の劇団ジャブジャブサーキットはそんな公演をするわけはなかった。手の込んだ、でも素の舞台を使い、舞台であった前とあるとき、そして舞台でなくなってしまうまでを想像させ感じさせるお芝居を創り上げていた。
劇団ジャブジャブサーキット◎創立プレ20周年特別公演『裸の劇場』(作・演出:はせひろいち)。19:38〜21:35。初日である(帰りに、若手劇団員がスーパーで発泡酒を買っていた)。
名古屋で見たのだが、確かタヌキの役をしていた客演の土居辰男が、雇われ劇場支配人になっている(ウィングフィールドのこの時だけ支配人のようだ)。あと客演は、劇団B級遊撃隊の山積かだい。それに劇団新人の永見一実が初顔となる。
これは、劇場(舞台)としての大阪心斎橋ウィングフィールド自体が演劇の主要な登場人物となるお芝居であった。だから、これから公演される名古屋天白のナビ・ロフトと東京池袋のシアターグリーンでは、同じお芝居でも登場人物としての舞台が違うので、それ以外の役者たちは台詞がずいぶんと違うことになるという。
お芝居の仕立ては、役者の失踪事件にまつわるミステリーであり、劇中劇であり謎解きである。大学時代に最初に演劇をした女性(演出家)に、死の直前、戯曲を2つ送った劇作家の弔いがテーマでもある。
最後の最後までつづくどんてん返し。わくわくとじーんとがミックスされる。でも必要以上に湿っぽくはなく技巧的でもない。殺人か死体遺棄か。偽装か演劇的プロットか。劇場と死との相関関係。演技と実技。書き出すとせっかくのどきどきがなくなるので、その内容についてはここには書かないでおこう。
ただ、オーディションのシーン(はじめの劇中劇であり、弔われる劇作家の処女作である)は、いろいろ感じることが多かった。最近、審査員をする機会がめっきり増えているからでもある。照明を吊っていくお芝居。カセットでの諸注意。そして、片思いのカチカチゼミ。これがお父さんから娘(新人役者)へのプレゼント(遺志)にもなる多重性、片思いされる親、同じようにカチカチゼミがらみで片思いされてしまう娘の平行性・・・。
いいお芝居をみると書きたいことがつぎつぎにくる。でも秋は公演がいっぱいつづく。書く暇がない自分が何とももどかしい。
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