Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》MINATOMACHI U.G.-2

vol.478.
9/22(月)
新たな情報発信『湊町アンダーグラウンドプロジェクト』&授業開始(その2)

文化農場の代表橋本敏子さんは、ぼくが財団法人地域創造のときからずっとほんとうにお世話になったこの分野の開拓者である。オレンジ色の『地域の力とアートエネルギー』(学陽書房)はできればまた復刊してほしいいい本であったのに、地域創造への許可とかいろいろ屈辱的なこともしてもらった。滋賀に飛ばされたときには、彼女が奔走してこしらえた共同メセナのドキュメント2000プロジェクトにも入れてもらったし、まあ書き出すときりがないほどお世話になった。

だからこそ、出かけた。なんばのなかでもJR難波駅の方へいったのははじめてで、行く前からちょっとどきどきしてくる。入場方法のところで、「来場される皆さまには、ご自身の意志と責任を持って体感していただくために、入場保険料のお支払い及び入場パスポートへの署名が必要となります。」とチラシにあったのも、少し大げさで悪趣味だろう(料金をどうにかしてとるやめの算段らしい)が、その期待を増幅させる。

すでに視てきた青森の立木祥一郎さんと県庁の女性にすれ違う。立木さんは関西にはたびたび来ることになりましたと嬉しいことを言ってくれる。だからまた期待がアップする。

通路の先に受付があるが、おっと、この通路は鳴き龍だと、フラッターエコーを楽しむ。もちろん設計的にはまずい音環境で歩くと金属音がつきまわってくるものだが、このプロジェクト自体がぼくのなかではノイズぽいイメージなので、これもまたグッドな設定だ(たまたまだが)。

で、このあとがガクンガクン。ここまでで全てだった。これって、そういえば維新派と同じである。維新派のすごさは、場所の選定とそこへの設営である。壮大さと無謀な感じ。公演日になって舞台美術を鑑賞して、おおと思う。が、実際に始まると、そこでのステージは何をインカムに向かって言っているかも明瞭でない無個性なパフォーマーたちによるあまりにもむごいカスカスの「発信」ものである(すくなくともぼくがみた90年代からの5つほどの公演はそうだった)。

そのギャップに、ちょっと頭を冷やして美術と実演芸術との違いを学ぶ。つまり、美術展をしているときに鑑賞者の反応を美術家や学芸員がいちいちチェックし翌日の展示に反映することはないでしょ(逆にパフォーミングアーツはその観客の反応とのコラボレーションであり、反応がなければ作品ですらありえない)。

美術関係者が制作的な事務をするとホントにお客として扱っているのだろうかという対応をされてほとほと疲れたことが多かった。だから、(サービスやコミュニケーションの基本を知らない若者たちが担当だった)今回の受付でそんな扱いを受けても仕方がないのだろう。

案内の袋を棄ててしまったぼくが受付に立つ(ばくは中に入っていた名刺大のものが招待状だと思っていたのだ)。封筒がなければダメなようだ。でも、ぼくがどうもうるさそうなので(ひそひそそう言っているのが聴こえる)、では、招待にしてあげるから、名刺を2枚寄こせと言われたのにはびっくりした(冊子になった招待者名簿にぼくの名前がないというのだけれど)。

この2枚というのが驚きである。で名刺はおまえらにやれないから金を払うというと、では、この紙の裏に名前を書けといって、自分が持っていたスタッフ用メモの裏を出す。しかも差し出したペンは赤ペン。うーん。何なの。8人ぐらいがずらっと並んで暇そうにしてやりとりをみている。

つぎに荷物を渡すのだが、携帯電話も預けろという。ぼくは携帯は持たないから預けられない。カメラも渡せとしつこい。カメラも持っていない。何だかこういう嫌がらせをするのがこの展覧会のコンセプトなのかと諦めて、誘導に従う。

ところが、あそこの男が誘導するというから外に出て、その男のそばへ行くが何も反応(案内)しない。おっと、もっと違う人が先にいるのかと思ってずんずんいくが、どうも違うようだ。仕方がなく引き返す(シカトされたのか!!)。

でも、ぼーっと立っているその若い男はあやまりも何もいわず、こちらがどうして何も言わなかったの?といっても無言(おいおい、おまえは何のためにそこにいるのだ!)。こりゃ何を言っても仕方がない、電車の中で脚を広げて椅子を占領している連中と同じ穴のむじなだなあと思って、ドアを開けて入る。

中年の女性が赤い札をリストに巻き付けろと渡す。5と書いてあったので、30名限定を明確にするためだろう。リストには荷物札と一緒に札が巻き付いてちょっと心拍を感じさせることになる。だから、これも悪趣味ながらちょっと冒険心をそそる仕掛けではある。

階段を下りていく。もっと暗かったりすごかったりするのかと思ったら、ただの広く長い地下空間だった。あまりにも想像以下だったので、まあそれもいいだろうと、前に映っているコンピュータグラフィクスの映像をみる。なにも感じないままに、下へ。

階段を下りるときにみたのは、小さなモニターが3つ4つあって、そこをのぞくと同じものだった。どうも久保田テツ作品のようだ。久保田くんとはいつも一緒だったが東京に行って少し寂しいなと思っていたら、こんな静かなかわいらしいものをつくっていたのだ。なんとも形容できない他愛のないもので、窓の風景が上手から下手へ移っていくだけのもの。

これぐらい他愛のないものがここにあるのはいいなと思う。できれば、小さなモニターを2つぐらいで、一つは誰でも見えるところ、もう一つはほとんど誰も見えないところに置くぐらいのインスタレーションがよかったのではないだろうか。入口はまず余分というか、意味がない。

降りてすぐの空間は、大きな映像が映っている。鉄条網が巨大に映っているときはいいなと思ったが、あとは、ちょっとした段差を活かしたりしているぐらいで、これが何なのだろうと思うが、まあ、こういうのが映像というものの限界なのだろうなと思ったりもする(宮本佳明+seesaw)。

奥は高橋匡太による1232本の白い蛍光灯(古いものを集めたのだろうか、まちまちの光の色になっている)が無造作に床に並べられているもの。柵が手前にあって、観客はそこからしか見れないのがまずよくない。それと、電車が通る音に従ってつけたり消したり女性がしているのだが、イヤホンで音楽を聴いているようで、どうも真剣にやっていない感じがもろに伝わってくる。これって、けっこう消すときなどに神経を入れて行為すべきなのに、ちゃらんぽらんな感じにみえてしまっている。

でも、ぼくはまだ長くいた方で、入ってきてすぐにいなくなる人が多い。それとかつかついう靴の音もちょっと気になる。若いとき橋本敏子さんはネオンアーティストになることを夢見ていたという話を聞いたことがある。きっと橋本さんはここに自分の夢を見ようとしたのではないか。だったら、彼女がすればよかったなあと思い直して、彼女がどんな光をこの殺風景な空間にあてることになるのか、そんな想像をすることで、今日の動揺を鎮めようと思った。

そうそう、会場内に黒いゴミ袋が階段の下に積まれていた。そこから微かにゴミの腐る臭いがする。それが意図されたものとして蛍光灯と対比させて置いてあったのだったら、なかなかにかっこいい技であるとは思うが。


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