Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Tsukiyama Ikuyo Exhibition-3

vol.482.
10/4(土)
(その3)『ほとりで。』展のあと、京都芸術センター『宇宙の旅、セミが鳴いて』などへ

つき山いくよとベートルズのパフォーマンスを堪能したあと。
時間はあるしこのまま電車移動するのはもったいなので川沿い(大川)を東へぶらぶら。でも最寄り駅はどこかわからずにまた天満橋に戻る(造幣局があって実は最寄り駅は桜ノ宮駅だったようだ)。天守閣が鮮やかに見える、大阪城!。その手前にみえる古い建物は何だろう。

特急に乗ると、山下残さんの長身が見えたので一緒に座って話す。残さんに、演劇ってどういう風にいいとかよくないとか評価するのでしょう?と聞かれた。また関西の劇団はどこをみたらいいのでしょう?とも。すごくむずかしい直球の質問をうけてどきまぎ。ダンスと演劇について、もっとよく考えなきゃいけない。

とりあえず、「思いがけない身体の動き」がダンスの評価基準の大事なものとしたら、演劇では、「思いがけない関係性の発現」ということになるだろうか。当初の予想を裏切ってゆく爽快な展開の妙、でも見たあとは作品として納得させてくれる塩梅の絶妙さ。予想を裏切るだけで観客を取り残すだけだと単なる自分勝手となる(でも50年後の観客へ届けようとしている可能性もゼロではないとことがむずかしいが)。ただ、それはどんなジャンルでも変わりはない。

扇子屋をみながら六角堂通りを進む。新町通を少し下がる。そして蛸薬師通りを西へちょっと。不動町。道幅が狭くなって、ちょこんと郷田さんの拠点、Trade mark Kyotoがあった。奥にドッグカフェがあり、その奥には週末にだけやっているSaSaraがあって、そこでゆっくりと坪庭をみながらコーヒーを啜った。また学生たちと来ようと思う。

京都芸術センターへ。国際総合芸術祭・京都ビエンナーレ2003が始まっていた。これは「芸術祭典・京」の後継事業である。スローネス〜〈速さ〉の中に〈ゆっくり〉を創り出す〜がテーマのようだ。法然院やみなみ会館、京都市役所や先斗町歌舞練場などいろいろな場所でやっているけれど、京都芸術センターができたことでここが中心であることにはちがいない。

何となく「祭」らしかったのは、スロバキアのイルウィンという人によるビデオモニターを顔にしたパフォーマンスだった。「NSK時間国家の警護・京都」。階段にけつまずかないで、みている人たちと踊ったりしていた。ギャラリーでもオブジェと映像の展示があり、首を出してみる映像展示の仕掛けは目新しかった。

2階の講堂で、今日から『宇宙の旅、セミが鳴いて』が始まる。13日まで。作者の鈴江俊郎さんも企画の杉山準さんも客の入りを心配していてありがたい申し出をしてもらっている。初日はみんなどきどきしている。見る方もそのどきどきが伝わってくる気がする。思った通り満席にはならない。立命館大でぼくの講義をとった学生といまとっている学生がわざわざ挨拶に来た。京都橘女子大学はいそうにない。

19:36〜21:19。
できればもう一度観たい。最終日あたりに(実際は無理だけど)。きっと、ずいぶんと観客との関係で熟成するにちがいない。四方からの客席の目線はその可能性が大きい。SFというスタイルは鈴江俊郎とはもっとも無縁なものだと思っていたが、意外とすんなりと設定や展開に身を任せられた。

ただ、高瀬久男(文学座)という人の演出ははじめてであったから、みるまではかなり心配だった。木村保の鈴江らしいまわりくどいしゃべり口の冒頭。活舌を気にした言い回しだなと思う。佐伯花恵という役者が大声過ぎて、ああと思ったのは致し方ない(文学座の研究所出身だから)としても、駒田大輔の演技までが大きすぎる。

ぜんたいにわざとらしくておおげさかな・・と冒頭から少しのあいだは微かな違和感もあったが、そのうちに自分のなかで違和感は薄れ、役者名の観察から、登場人物名による観劇へと移行できた。ラストのテープでの声は指定通りなのかな。劇団衛星の人たちと劇団八時半の中村さんや魚灯の林さんとでははじめはずいぶんと演技のタイプが違っただろう。それがほとんどシームレスになっている。これが芸術センターのトレーニングと稽古の成果であることはまちがいない。

汚染された地球では開発できない新しい食物を宇宙船で育てていく。その帰りに起きた事件。恋愛御法度の宇宙船にあるのは、じつは恋愛と性愛のみである、同性愛的感情や近親相姦的な関係も含めて。たしかにセミは性行為をしているようなかっこうで思いっきり鳴いている。セミが聞こえない宇宙の中。セミの生命的行為を自分たちのかなだけで観察する。有機物である肉体の新陳代謝とその停止についてをシンプルに意識させる。つまり「生と死」である。

ここにもそれ以外の権力欲や仲間割れもあるのだろうが、いじめも愛情表現のねじ曲がったものだといじめられている本人が解釈するように、思い切って明解な愛憎関係だけで日常を埋め尽くし、そこへ思わぬ地球上の事件が勃発して宇宙船での事件を呼ぶ。

林賢郎役のキャラは、演劇上での鈴江俊郎自身の投影なのだろうが、その一貫さはびっくりするほどだ。神父役のF・ジャパンの情けないほどの自信のなさ愛情を示されてのとまどい、女医役の山本麻貴が潔癖性故に手をかきむしってしまう病的症状、豊島由香が演じる食事係が他のクルーのように円陣には入らないところなど、いまの社会の縮図を反映している。さらに家族関係を引き出すために出すために四人兄弟(3名は女)が同じ食物開発係となっている(その分エリート選抜についての自然さは少し犠牲になっている)。

ところで、劇団衛星のファック・ジャパンさんははもうファックではなくずっと「F」になったのかしら。ファイトもフィーバーもファイアーも、フェイクもファニーもファンシーも、フェイスもフリーダムもフジ娘も、フォックスもフェチもフラストレーションも、ファックに含めての「F」だということなのかな。それとも、この前の尼崎と同じく行政用のフェイクかな。


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