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vol.483.
10/13(月、休日)
第1回全国アートNPOフォーラムat remo & 劇団態変『碧天彷徨』ウィングフィールドなど

朝の間、雨。今日は実行委員ではあるが、気楽にトークを聴き少し質問(発言)してから、神戸アートビレッジセンターには行かずに(NPO法人アーツワークスは理事長の鈴木英生さんが出てくれるので彼に任せて)、嬉しい観劇をさせてもらうことにした。

昨日からの第1回全国アートNPOフォーラムで福岡市文化芸術振興財団(吉村さん、三浦さん)とか、かなり大勢の人が遠くからきてくれている模様。ぼくは、NPO法人remo代表理事の甲斐賢治さん司会のトークに午前中出ただけだったが、なかなかにいいフォーラムが全体的にも行われている気配がした。

大阪市の乾正一さんとダンスボックスの大谷燠さんと甲斐さんの組み合わせはほどよく知り合いで一緒にシゴトをしつつ、その立場の違いや個性のありようが違っていてナルホドと聴いていた。
(もう一人スペシャルとかのゲストがいたけれどその人とは直接関係なく)都道府県はいつになったら本当の自治体になれるか?という問いには消極的な答えしかないなと話をききつつ自分の世界に入って確信した。こんな中途半端な二重自治体制度などなくすほうがいっそのこといいのかもしれない。

つまり、都道府県のシゴトを大胆にリストラし(だいたいいまの予算の3割ぐらいに絞る)産業振興(経済産業局と合体)と国の委任事務ぐらいに制限。別に府税を払ったりせず、市税のなかから府でしか出来ないもののみをあげる仕組みを作ることをトークの間考えていた。

役人出身の人が多くなりずぎる知事や何をしていいのかわからない議員たちの選出は直接選挙でなくてもいいのではないか(市町村首長と議員による間接選挙か最高裁判事チェックのような形での任命制)と思うほどだ(戦前に戻るというか、制度が戦前のままでただ戦後に形だけ公選にしても同じことだということである)。

ぼくは公務員が個人的に「アーツに意思ある市民」になることはもちろん大歓迎である。なお「意思ある市民」というのは大谷燠さんが加藤種男さんの話として出したことばで、きっと自分でアーツを判断できる自由な人を市民と呼ぼうという文脈ではないかとぼくは推量している。

が、芸術政策を公務として行うスタッフであるかぎりは、市民の声を代表して作られた条例や予算にもとづき、市民のアーツ意思を誠実に執行する人であらねばならない、ということをいいたかったのだ。その議会や首長が決めた事業がつまらないとすれば(意思なき有権者の代表を選んだ自分たちにその責任は戻ってくるわけで)、結局は市民のアーツ意思が反映されていないのだから反映するような仕組みに変えるべきなのである。

だが、神戸大学の藤野一夫さんが教えてくれたようにドイツのごとく啓蒙的な文化局長が文化の中身に責任を持つやり方は、日本では到底無理なので(芸術監督制は日本では芸術の独裁と化した)、結局文化の中身は触らない仕組みを作ればいいということになる。つまりは、アーツNPOたちのネットの培養土をつくること、そのネットの状態を観察する環境をつくることとなる。

文化政策とは一言でいえば「文化を通じた幸せづくり」である。日常の「小さな死体」への比喩になってちょっと尾籠だけど、ぼくが薦める文化政策とは、その「幸せ」の判断と「文化」の中身はすべて市民に委ね、文化と幸せの間にある「を通じた」という部分、つまりこの「お通じ」(=through)だけを政策することなのである(すなわち中身づくりではなく、環境づくりだということだ)。

だから、便秘がひどい場合は便秘薬であったりするけど、よりいい政策はほどよいお腹のマッサージであったり、自分で快便へと向かうように繊維質を取ることを薦めたりするアウトリーチだったりするわけなのね(尾籠でごめん)。

おっと、心斎橋ウィングフィールドでの劇団態変創立20周年記念公演『碧天彷徨』(作・演出金満里)について書く時間がなくなってしまった。さまざまに新しい発見をしたけれど、この作品は自分たちの原点への遡及でもあるという作者の金満里のことばはなるほどと思う。

常に過去へ遡及しつつ、そこからもう一つの道を探る旅。旅ではなく逃走や迷走、脱離や夢想であったとしても、恐れないで踏みだすなかに、真の友情のかたちが浮かびだしてくる。おさげから短髪へ。塀を乗り越えて。自分にくくりつける袋。商店街には危険がいっぱいだ。風は優しく吹くばかりではなく、ときには雲の上まで飛んで行かせてくれる。・・

紳士のステッキや鞭(外部の悪や組織間の対立などのどろどろした現実)のようなものまで。自分たち自身で演じ切ることで、告発ではなく体制の敵を内部へと取り込み融解し、消化する。そして、システム自体への変革とするその過程が芸術として多義的に提示しようとする。その希有な力を今日も観させてもらって、大満足である。

新しい発見は、黒子の退出させる仕様が幾通りもあって、その退出のさせかたも緊密な劇空間として計算されているという驚きと、主役として客席まで入り込んだ井上朋子の実力。井上と対となる菊池理恵の対照的なかわいさ、剽軽さ。そして、映像の使用がナイーブな目線を創り出していること。

ベテランの名サポートも忘れがたい。いぶし銀のような福森慶之介は顔に一掃の迫力。小泉ゆうすけも、今回赤いビーとして若々しい姿を見せた木村年男などを引き立たせる役割、つまりバイプレーヤーに徹して隙がない。

最後の挨拶で竹内たかし(小さな「山高帽のガタガタ蛇の紳士」)が、金満里の横に木村年男と並ぶ。
すると、不動ではない身体たち、それぞれが独自でどこにも共通点がないような個性的肉体なのにもかかわらず、一瞬その舞台姿がいつまでもそこに在り続ける運命だったような錯覚に見舞われた。
永遠のトルソーが立ち上がったような一瞬の出来事、夢のような錯覚である。


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