Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》YAMAMOTO Kaori Costume Play,Bride series

vol.506.
1/23(金)
山本香展『Costume Play,Bride series』CAS

気まぐれで怠惰な一日。いろいろ予定を立てていたのに、実現したのは展覧会を見ることのみだった。でも、様々なことをこの展覧会を見て思わせてもらった。少し冠婚葬祭への連想が強すぎるというのがぼくの仕方のないいまの状態ではあるが。

Contemporary Art and Spirits、略してCAS。ホントにたまにCASに訪問する。前はここで蝋燭を桜の花びらにして散らすパフォーマンスを見た(2003/4/7、『散華』澤登恭子)。イラク戦争が始まる前後だったか。このたびも日本自衛隊のイラク「派兵」(戦闘服姿だから非戦闘地域といえど、兵隊として出かけたのは間違いないから「兵」だ)の最中である。

山本香展。売られているカタログでは、タイトルなどはすべて英語で、次のように記されている。Selected by TAKAHASHI junko(Canon Social and Cultutal Support Programs) YAMAMOTO Kaori Costume Play,Bride series。

1/19〜2/21まで。1/31にアーティストトークが16時からあって、女子大生数名とトークするらしい。うちにもブライダルコーディネーター志望の1回生がいて、このチラシを渡しておいた。行って欲しいものだ。たまに行くから入るときマンションのベルを鳴らすべきなのかそうでないのかが分かりづらい。今日は鳴らしたのだが、するとシノバーさんが携帯電話で話していて、来客だからまたあとで、とか言っているのを聴きつつすぐにドアを開けてしまった。ちょっと中途半端な訪問をしてしまうのだが、マンションでの展示というのは少しドキドキするのもまた確かである。

入ってから、シノバーさんがきて話して色々教えてもらったりしたのだが、そのなかで昔の女の子の夢って綺麗なお嫁さん(しかもドレス姿で描かれる)でしたよねとシノバーさんが言ったので、でも、うちの学生たちも昔と同じように将来の夢がホントは「花嫁さん」という者がけっこういるのですよと答えた。でも、そういう作文を試験や就職作文では書けないから言わないまでだと告白する学生もいるので、そういう本音をこういうところで話したり出来るといいなあと思ってみる。

「コスチュームプレイ」というのは、さまざまな設定によって衣装を替え、物語の人になるセルフポートレートのことだろう。山本香のCASデビュー『愛の部屋』(2000)では、ファッションホテルという名前よりもラブホテルと呼ぶほうがぴったりの古典的ラブホテルや連れこみ宿で、それに相応しい女性の姿をして写っていた。ぼくは水戸芸術館で見たと思うが、どこか陰影があってウェットな空気が印象的だった。

今回は光まぶしいものも多い。日差しをうけたガラスのなかで光に溶け込むような姿。大写しの上半身を楕円の縁取りで切った写真は、貴族の肖像画をそのまま模しているようだ。花びらのようにドレスを広げて座る姿は豪華さと恭順の象徴として使われる構図なのだろうか。

そのあとはスナップ写真のようなものが続く。今回も聴くところによると、ラブホテルにて撮影した作品が結婚式場に付属する写真館で撮した写真と渾然一体となっていて、その境がうっすらとした一続きになっているのだった。不安げに自分の姿を鏡に映すスナップから写真が続いていく。気がつかなかったのだが、ウェディングドレスだと思って疑わなかったものはじつはエプロン姿で、それもエッチをするときにするように、ベールのなかの純白のエプロンをしている下半身後部はかなり露出気味である。

これって古典的に自分の妻になった女への男の欲望、つまり食事を作ってもらう花嫁という願望といつでも果たせる性欲との合体であって、彼女はそれを、まずは清純な花嫁姿を演出してから順々に「初夜」(これも死語かも知れないが)へと向かうように演じて見せているわけだ。芦屋教会というところの写真館で撮ったらしくて、花嫁として撮してもらったので、花婿さんはどうしたのですかとそこの人に聞かれたたそうだ。

特に興味があるのは、白無垢の打ち掛け姿だった。ウェディングドレスでもそうだが、頭に「被りもの」をつけているのは、単に恥ずかしいとかいうことでもないようだ。これはいま民俗学で言われていることだが、ハレ着をつけるハレの舞台を迎えるセレモニーは、実は「ケガレ」た状態に行われるものなのである。

《生児や死者、喪に服する者は勿論、娘から読めへと大きな移行をとげる花嫁もケガレたものとして(近藤直也『ケガレとしての花嫁』創元社、1997)同じ衣服をまとった》(慶友社『よそおいの民俗誌』より中村ひろ子「死者の衣服のフォークロア」P131)。

ケガレとは「ケ(褻:ふだんの状態、日常生活)」の枯渇(カレ)と考えると、結婚式など冠婚葬祭の節目にあるときは、すべて日常の「褻」がなくなって、新たな「褻」を生むまでの褻の欠如の状態になると言える。その節目を乗り越えるためにケガレを忌みつつハレの儀式を行う。これが晴れ着ということになる。

少し死に装束の研究へと越境してしまうが、死者が後生における出生であると同じように、花嫁も「娘の死」であり「妻の誕生」であるので、前出の論文の一節を引用させてもらっておく。

《死者の旅支度は、死者があの世という異なる世界へ移行する者であることを示すものであると述べたが、異なる世界へ移行する者は死者に限らない。私達は一生という本来切れ目のない一続きの時間をこども、おとな、老人、死者などというように区切りをつけ、新たな領域に移行する時には儀礼を行ないハレ着を着る。・・ハレ着に共通してみられるのが白という色と被りもの、あるいは被衣(カツギ、頭から被る着物)である。死者の着物として紹介した白装束、白無垢、白着物、イロと呼ばれる白い着物は花嫁や喪に服す者の衣服でもあり、生児に着せるエナギも白であった。特に笠や綿帽子、オカザキ、フナゾコなどと呼ばれる被りもの、そして、カツギ、カムリカタビラなどと呼ばれる被衣は異なる世界へ移行する者であることを象徴的に示すものとしてハレ着に欠かせないものであった。死者もまた花嫁などと同様白い着物に被りものというハレ着を着けたのである。・・)(同論文P130)


こぐれ日記」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室