Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》condolatory speech

vol.504.
1/19(月)
副田義也『死者に語る〜弔辞の社会学』(ちくま新書449)を読んでほか

京都橘女子大学における2003年度最後の授業。専門ゼミの最後でもある。
何をしようかなと思ったが、少し「オリジナルであること」という話をすることにした。実は昨夜、はなからレポートとしてこの題目をもらったと電話で相談を受けたこともあって、同じ学生たちにも、ぼくがはなに言ったこと、言いそびれたことをいいたくなったからだ。

たやすく歌われるいまはやりの「オンリーワン」などよりもっと深くすすんで、みなさんはオリジナルワンをめざしていままで文化政策ではやってきたのですよ、実は、と。オリジン(根っこをもつこと、根源性。つまり揺るがない継承文化への自覚、あるいはライブな文化体験に基づくあなたの代替不可能性)が、池上惇先生の言う固有価値だし、まちづくりなどで耳タコになっただろうアイデンティティ(あなたであってあなたでない人とは違う「自己同一性」。そういえばまだ見ていないが、アイデンティティを分解した=言葉遊びしている映画をやっている)ということなのだからね。

昨日読み終わったちくま新書。2003.12.10。
副田義也『死者に語る〜弔辞の社会学』。弔辞は、いままでぼくの葬送行事のなかで、あんまり重要に思っていなかった。それは、社会的に有名な人にとっては大切なものであり、歴史的資料ではあるだろうが、一般の人たちにとって、弔辞を読む葬式がどれほどあるのかが分からなかった(自分の親類関係とかでは経験していなかったと思う)からでもあるし、それよりも参列する一人ひとりの語りかけの方がお偉方などの弔辞や弔電などよりも、まさしく舞台上の役者と観客における交通として(そういうステージづくりのありようが)大切だと思っていたからでもある。

しかしながら、たとえばお能をみれば、ワキは死んだシテ(はじめは生きているシテで、後に実際は亡霊であることが多い)を追悼する僧侶だったりする。ワキは観客の代表として、その妄執に囚われてなかなか成仏できない死霊の言葉を聞き、つらさを感じ、舞にこころを打たれつつ、ともに祈るように亡霊の歴史を思い弔うという側面がある。

したがって、弔辞を読む人は故人の友人であったり弟子であったり、後継者だったりするが、会衆を代表していることは間違いなく、弔辞の文章表現から、彼我の死生観を考え、あるいは、社会学的な考察を与える(ぼくならば、限界芸術としてのモノローグアーツと弔辞の行為を考えることもできそうだ)ことはなかなかに有意義であると読みながら思った。

この本で分かったことだが、日本人は普通弔辞というと、「死者、霊魂に呼びかけ、語りかける」(P19)ものと思っていて、実際にその形式のものが多い。つまり、「日本の伝統文化においては、葬儀の本質は死者との別離の儀式」(P20)だからだ。

ところが、「キリスト教会においては、葬儀の本質は神の栄光を賛美する儀式」(P20)であり、弔辞は、遺族への励ましや故人の略歴紹介などならあってもさしつかえない(基本はなし)とされているのだそうで、これは、日本の通常の弔辞が「対故人型」と呼ぶならば、「対会衆型」のものである(本来的には〜というのも実際は遺影への献花なども偶像崇拝だし、実際には日本ではけっこう「対故人型」弔辞も見られるらしい)。

とりわけ、筆者はクリスチャンホームで育ち、特にプロテスタントの両親は、偶像崇拝を禁じていた影響もあって、彼もずっと弔辞を頼まれても「対会衆型」にしてきたという。ただ、20年前、筆者にとって重要な友人吉田さんの葬儀において転機が訪れる。この最後のところが、実はこの社会学を書き始めた直接のきっかけであるとみることができる。したがって、この著作は、なかなかに味わい深い一つの主題に絞った短期間の研究の成果であると同時に、この本全体が実は、その研究の同士であった吉田さんへの長い弔辞ともなっているように思える。

少し内容を紹介しておこう。
本編の分析に使われた弔辞は、中曽根康弘から故岸信介へと江田三郎から故浅沼稲次郎へが政治家の弔辞。谷井昭雄から故松下幸之助へが社葬における弔辞で、どれも弔辞を読む人がこれからどう受け継ぎ変えるのかという立場(思惑)によって、弔辞に述べられる功績の内容が変わる点の分析が面白い。

《・・谷井の弔辞は松下の経営者としての行為とかれが信じた神仏などに口をつぐみ、松下自身を神のような存在として天上に送り出し位置づけ、その新しい宗教の誕生を告げるマニフェストであった。社葬の弔辞は会社教の成立を宣言する。これが本省の最終命題である》。
鋭い言い切りのカタチがこのように随所に見られて気持ちがいい。とくに、この社葬の定義は簡潔で、しかも独特な味がある。

また、南原繁による弔辞については、南原がキリスト教知識人であるために、この著名な大学人が先輩や同僚、後輩に対してどう表現したかという面の他に、「無教会派キリスト教者という日本化の強いキリスト教信仰を持つ南原において、伝統的な「対故人型」弔辞がかなりの程度見られる」という信仰者分析がなされている点が特徴的である。なお、文学者としては故原民喜への弔辞(近代文学同人)があげられている。

さらに、これらすべてにおいて、5つの視点から弔辞の意味内容が検討されていて、客観的な分析にも使えるように分かりやすく整理されている。つまり、(1)死者観、死別の見方、(2)伝記的要素、(3)人物描写、性格描写、(4)現代史的要素、(5)政治家論、経営者論、宗教家論、文学者論である。これから、「弔辞とは死者が歴史のなかでどう生きたかを語る文章作品である」(P221)と定義化し結論づけているので明解である。もちろん、「送る方を代表する者の朗読による」という説明を「文章作品である」の修飾としてつけた方がより分かりやすいだろうけれど。つまり、こうなる。「弔辞とは、送る方を代表する者の朗読によって、死者が歴史のなかでどう生きたかを語る文章作品である」、と。


こぐれ日記」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室