Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》AKSAKI Mima & AZANAI TSUNO-HIROI

vol.510.
2/13(金)
ラ・フェニーチェ『赤崎みま展〜蓮のシリーズ〜』&HEP HALL〜糾『つのひろい』など

午後、京橋の大阪ビジネスパークへ行く。確か、9日からOBPアーツプロジェクトの一環で同志社大学の写真サークルグループが携帯電話を絡ませた企画で展示をしていると聞いていたからだ。でも、見あたらなかった。その替わり、1階で瀬戸内の物産展をしていたので、ここで梅干しやヒジキを買った。

17時頃、何かしら大阪城ホールあたりが騒がしいので歩いてみると、浜崎あゆみのコンサートが今夜行われるので、すでにいろいろグッズ販売などしているからだった。早くから来ているものだ。同じ袋を持って人待つ人たち。子連れもいる。大阪城駅へとどんどん夜店が作られていき、たこ焼きや焼きそばが売れている。ブロマイド屋にも人だかり(明日はもっとアベックで混むのだろう)。

ダフ屋がうろうろしてぼくまで尋ねに来る、券余ってませんか。
どんな風にやりとしするのか見てやろうと座って雑誌を読みながら(名古屋で出しているなかなかに硬質な読みごたえのある芸術批評誌『リア』5号を片手にして)、観察する。

ダフ屋を無視するカップル、結構丁寧にありませんよとダフ屋に笑って答える女性など、さまざまだ。ダフ屋もまたいろいろ。財布をちらつかせる男や携帯電話でやりとりしつつ、声をかける者、すーと忍び寄ったり、通せんぼをするものなど・・・この風景もこういうイベントには不可欠のアイテムなのかも知れない。

環状線を逆回りにして時間をかけて大阪駅へ。ふと、『赤崎みま新作展〜蓮のシリーズ〜』がすでにギャラリー「ラ・フェニーチェ」で始まっていたことを思い出す(2/9〜2/27)。18時までなので急ぎ足で茶屋町へ。案内の葉書を学生たち(去年、アートスペース虹で赤崎みまさんの作品を観ていたので、すぐに同じ作家の作品だと分かったようだ)に見せたら、エンドウ豆?って言っていて、ぼくもそうだとてっきり思ってしまっていた。

その赤崎の作品も、実は、蓮の葉だった。葉を水平からみた世界。それは、舟のように天上からの光を受け止めている形だったのだ。上から見ると丸く漂うものでこれなら葉だと分かる。

じつは、これらを写し出す黒の印画紙がもう生産されないのだという。今回が最後。うーん、希少価値にもっとなる。これもまた手に入れたいなあ。
今回、花は赤く、葉は緑だから、ギャラリーに入って順番に見ていくと、物体と輝く色とのギャップに戸惑うことはない。逆にはじめは自明な写真のように見える。もちろん、葉に漂う灰色の影など、影の本体はないから、それ自体どこか心騒ぐ不安が隠されているのも確かなのだが。

そしてそのうち、その対象物自身が光っているのか、それとも別の光なのか分からないところがあって、じわじわと不思議さが増してくる。ある部分はピントが合っているのに別の部分ではどうしてこうも合わないのか、自分の網膜が歪んでいるのかと思ってしまうほど、一つの葉の有り様にすら現物とイメージとの深い落差を見る。長い凝視が網膜をマヒさせて。

蓮の葉と茎とつぼみと開いた花が個別に映されている。枯れた葉もあり、初夏のひとときだけを映した展示ではなかった。だから、それが展示されることで群生する蓮(=はちす)の「時空(時と空の双方)」がよみがえる。池の泥、揺れる水面に流れる風の紋、熱と水蒸気の揺らぎ、そして早朝、静かに花開く音。

たてに細長い作品が並ぶと、これらを教会の回廊に巡らしたら素敵だろうなあと思う。蓮は仏教的なイメージもあるが、特定の宗派とは関係なく、神秘的な祈りに繋がる植物なのだとしみじみと眺めて見飽きない。

そこからほど近くにある、ヘップファイブ。1階ではアカペラ男性グループがライブのリハーサルをしている。女性たちがすでに座っている。甘い高い声。聞き飽きたメロディ。それでもバレンタインデー関連でチョコレートを買っている女性たちには相応しいBGM的消費になっているのだろう。気の早いカップルも多い。

なるほどと思いつつ、ヘップホール。19:38〜21:07。糾〜あざない〜第14回公演『つのひろい』作・演出:芳崎洋子。医療保育士をしている作者と関係するだろう幼児虐待の若い母親、小夜子(大山まゆ)が主人公であった。心に痛いほど彼女の作品は直球である。自分の父親との関係を誠実に舞台にする。

それが舞台上では父親と娘の関係ではなく母親と娘だけの関係となって、現代におけるその密室性、深刻度は増大する一方だ。小夜子が思い出す父親が自分にした折檻は、母親も父親と同調しているような再現ではあった。しかし、きっとまた母が介在することで、父と娘の関係はより複雑であるとともに、母が緩衝剤となったはず。

いまは、父親が不在であることがよりストレートな癇癪として娘にぶつけられる。この癇癪が「つの」として象徴されている。この「つの」を拾うこと。これは反省であるけれども解決には至らない。至らないなかで、それでも生きていくには何かしら希望はあるはず。それは歌(スマイルアゲインと歌われるアカペラ)なのか、関係を絶たない専門機関の職員、最上(荒木千童)のケアなのか。

かなりの暴力父親であった自分のことを悔恨しつつも、親からの継承が宿業とか宿命ではなく、受け継がれ変化していく記憶の再生と編集だと思いたいものだと、祈るように観劇した。


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