Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》New Produce project-3
京都芸術センター、フリースペースへ。プロデューサー橋本裕介の仕事である。京都芸術センターセレクションvol.9 New Produce project-3。タイトルは『むずかしい演劇』。シンプルでしかも気が利いている題ではあるが、なかなかに抽象的だから宣伝美術(大庭佑子)もむずかしかったのではないだろうか。
チラシにあるイラストは、山がみっつ。3つのプログラムがあるので、きっとそれに対応するのだろう。登る努力を必要とする山で象徴的に「むずかしい」を表したのかなあ。裾野を歩いている人びとは小さく細いシルエットである。孤高の演劇作品が山である、と。それはまた山のようにずっと前からある。だから、チラシに山が選ばれたのかも知れない。
では、今回は見れなかったサミュエル・ベケットの「残り火」program[A](演出:田中遊)はどの山だろう。とりあえず、チラシの緑の山ということにしておこう。では、program[B]のタミオ(ユリイカ百貨店)演出の「ハムレットボックス」はどれか。奥に見える黄色の模様のある山だと見立てよう、シェークスピアの原作をピックアップしつつスタイリッシュに見せたものだし昔の作品だから。
古典である超有名なハムレットを45分間で見させた演出/脚色:タミオの機知は予想外に楽しくステキだった。色々な色がついては消える箱の壁。その壁は開いたり閉じたりもする。回転も女性が動かしているほと軽やかである。こんな明るさを持つハムレットボックスを作った舞台美術(西田聖)の貢献。
登場人物をとても絞って、ハムレット(亀岡寿行)とオフェーリアと見張りの人(他掛け持ちで数名ぐらいである。オフェーリアはユリイカ百貨店の二人の女優(尾崎しのぶ、森本久美)ともう一人の女優(須田万里江)が3人掛かりでスピーカーとムーバーのような感じ(by ク・ナウカ)のような設えで演じている。
ハムレットがむずかしい演劇とは普通思われないのだが、いまの時代にハムレットを忠実に演出すると言葉が溢れて時間がかかりすぎる。大河小説と同じく何が何だかごちゃごちゃ人物がいて退屈になってしまう、というのがまあぼくのようなせっかちな人間が感じる感想ではないだろうか。
それに、どうしても解釈が蓄積されてしまって教養主義的な解説が余分に周りにあって、それが「うざい」というのも偽らざるところである。そこを視覚で見せたスタイリッシュな省略さが見所。でもはじめの鮮やかな印象はなかなかに最後まで持続しないむずかしさがある、綺麗な舞台の宿命だ。また、理解できた部分だけを割り切って使っている感じも少しする。たとえば、「死ぬことは・・・眠ること」から、NIGHTと月の満ち欠け、おやすみと沈黙へとつづくとき、ハムレット世界が有するどろどろとした憎悪や狂気は白い衣装と共に夜の闇に消えてしまっている。
シーンが分かりやすい英語で紹介されるのも意外と新鮮でイヤミでない。発見の多い演出。京都精華大学出身の演劇人たちが関西の演劇シーンでどんどん注目されることは確かである。そういえば、小原啓渡さんも来ていた。
15分間の休憩。
その間にファック・ジャパンさんらが出てきて、白いおしゃれな箱を片づけ背後の黒い幕にしまい、こんどは畳が持ち運ばれる。一転して和の出で立ち。奥が中庭なのだろう、大きな葉がついた木が置かれる。劇中で花壇の一つでも作ればいいのにと言われる庭の準備である。籐椅子と座布団。ここが主人公ふたりのほとんどの居場所であるが、それが慎重に置かれる。
さて、冒頭に戻って、宣伝美術の山になぞらえると、前方の朱色の大きな山がprogram[C]だ。この山と同じく、見ていくほどに暖かになり、花と若草に溢れた芝居だったと思ったからだ。内容的にむずかしさはこれっぽっちもない。見ての通りだ(補聴器を始まってから探して着けていた50歳代の女性がいて、言葉の聞き取りがむずかしい部分はあったかも知れない)。
ただ、事件が起こらない演劇に不慣れな人にとって「静かな演劇」の偉大な先達が最近では敬遠されてしまっているということから、ここでプロデューサー橋本がここにあえて取り上げたのかも知れない。
何度も見たことのある『紙風船』、岸田國士の名作中の名作である。こんなに笑ってしまった「紙風船」はなかった。滑稽というのではなく真剣に男が妻に向かい合おうとする健気さに、つい笑ってしまうのだ。
演出は小さなもうひとつの場所の藤原康弘。公演時間は29分間だから、演劇としてはずいぶんと短編と言える。ドラマといえば、最後に庭に舞い込む鮮やかな隣のチエコちゃんの紙風船だけである。
でも、夫婦というのは、いつだっていくつになっても、結局はこういう関係である。とりわけ、仕事に終われる男にとって、空白としての日曜日の夫婦の心のありようとしては、これ以外に何もないって言ってもいいぐらいに真実である。だから、ずいぶんと男(藤原康弘)を我が身に置き換えて見てしまう個所が登場する。
楽しいことを言いだしあって、限度を知らないところまで突っ走る男、女は取り残され、唖然として諫める。二人だけになって家にずっといることの大切さを思いつついたたまれなくなってソトに出ようとする男。妻に対して女学生みたいだといいながら反対に妻に小学生だと言われる男。妻は女学生ではなくすでに妻であり、娘から嫁への通過儀礼をすませてきたことが男には理解できず、やはりまた妻も自分をそう納得させることがなかなかに出来ない。
じつに藤原康弘の実生活を十分知っているからそうだというわけではない。が、きっとこのサラリーマンの登場人物も藤原康弘さんも一緒に生活したり演劇を稽古したりする女(広田ゆうみ演じる編み物をゆっくりとする気丈な妻であると同時に演劇をともにする広田ゆうみさんでもある女)と、この舞台とまるで同じようにあるのではないかと、こちらがかってに想像してしまうから、つい微笑んでしまう。
古今東西関係なく、日常のなかで生活する二人というのは、きっとこのように所在なく新聞を持ち、あるいは編み物を使って静かに向かい合い、不器用に言い合いすれ違いつつ余所から見たらなんの変哲もない時を黙ったまま過ごしているのである。時間も歴史も止まったまま、「日曜日が恐ろしい」と言いつつ、こぼれ落ちそうな大事な時を両手に包み込むようにして。
そんななかで、この舞台のラストのように、たまに鮮やかな紙風船が隣からやってきて(コウノトリが運んできたりもするが)、それを飛ばすのに夢中になり二人は向き合う時間もなくなってしまう(妻の方がより多く風船を飛ばしていることが多いこともラストで暗示されていた)。
が、いつしか紙風船は成長して気球となって世界へ飛び立ち、また夫婦は老夫婦になりつつ、また冒頭と同じように二人だけになる。
「こぐれ日記」の扉へ
無断転載禁止 掲載:アーク編集室