Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》GYOTO-WARAIYAKU
静謐でポエティックな小品を、その宣伝美術(青木香。木版の押さえたタッチのチラシ)から想像した。が、実際は、公演時間は105分程度あり、ダイナミックでしかも直情的に高まったりして破綻することもない、骨格のしっかりとしたお芝居であった。
劇団魚灯「笑役(わらいやく)」。京都芸術センターフリースペースの奥に大きな木(舞台美術は林賢郎だという。床の下から明かりがつく居間がメイン舞台)。そこは火事の前は隣家があったところ。手前の居間の窓が枠だけ吊されている。いつもその木が見える。木の幹のそばには枯れ葉。そういえば、この前の作品(今回の作品は1年7ヶ月ぶりとなる)「祭りの兆し」でも奥にもう一つのステージがあった(ただこのときは駅前とかの違う場所と回顧する違う時間を見せていた)。
音響の狩場直史も役者として出ている。劇団八時半の役者として山岡徳貴子はよく見ているがいつも中心人物であった。だから、今回は、彼女が作・演出のため故に、そんなに役者としては多く出ていないことがちょっと残念な感じはする。でも、それは仕方がない。その代わり、4名の団員以外に充実したゲスト二人が味わい深い人間像を彫塑している。
この家は子どものいない若夫婦の家である。冒頭、谷玲子(豊島由香、「宇宙の旅、セミが鳴いて」でも階層が低い中年女の哀しさをさらさらと演じていた)が、キャリアウーマンの家にずっと外泊していた夫、谷(林賢郎)のカバンを持って現れる。居間にぼんと置く。
夫、谷にはファーストネームをあてがっていない。これは、はじめましてレディ、玲子の無店舗販売の上司/指南役で近所の瀬川(山岡徳貴子)と同じ扱い。この夫、谷は、どこか得体の知れない不安感を持ち自他ともに輪郭が定かでないからして、こういうことなっているのだろうか。
そのはじまり。谷家にいる火事にあった北村さなえ(枡野恵子)が、唐突に、‘お世話になりましたが、出ていきます’というようなことを玲子に言う。この唐突さは、劇団八時半的なはじまりである。でも、八時半よりは早口での空回り感はなく、事態は数分ぐらいして観客にも明らかになってくる。いや、観客は明らかだが、最後まで二つの家(というかカップル)と家においてその相手の実体を互いに知らないままであって、少しそこは不自然かも知れない。が、ドラマとしては、鑑賞者が優位に立っている方が安心して楽しめる利点がある。
夫、谷の女癖は、専業主婦の鈍くさい、ぼやーっとした善良な玲子のせいではない(少なくとも彼女だけのせいではない)のだが、ただ夫が玲子と真っ正面から向き合い、少しは手を出すぐらいのことをしていないからだと思ったりする。二つの家とも現代特有の問題を抱えているのだが、谷家の方は、しばらくすれば想像がつくぐらいの常識の範囲内である。
訪問販売で経済的に自立したいという専業主婦の熱望は、十分すぎるほど日本全体に蔓延してきた(もう一つの主婦の熱狂は、新興宗教活動のなかで自己の地位を社会に確認して、そのために信者を勧誘するというもの。このあり方も重要な社会問題だが、いずれも、勧誘による増殖が命であるところはまるで同じであり山岡が追ってきたものでもある)。
谷(夫)が身勝手にも販売を辞めさせるのに、父権を振るうところは、誰だって、あっと思うだろう。ひどすぎる、妻の気持ちになってみて、と。だから、隣家、北村家は、何でも落としてくれる「くるくるクリーン」(無店舗販売の商品の一つ)の販売促進のためにショーを考えたりもする。北村夫婦の方が深刻な事態であるにもかかわらずに。
北村さなえはずっと夫、晋吾から暴力を振るわれ続けてきた。それを玲子はさなえの火事の手当をして知る。夜中起きて、昼間寝る晋吾(と谷夫婦は思っている)。実は晋吾は晋吾ではなく、一緒にいるのは、リストラされ妻子に逃げられたホームレスの人であった(狩場直史)。偽北村は、さなえが自宅を放火して無理心中をしようとしたのだと思って、夜中起きていたという。心優しい、優しすぎ、弱すぎの男と、気の強いさなえの、奇妙なカップル。
ここに、晋吾の妹と称する女、野畑美都子(武田暁)がやってくる。美都子は北村晋吾の前妻だった(このことは、谷家には知らされず気づかないままに劇が進行する)のだが、夫の暴力により離婚。たばこの火による痣の整形費用などを慰謝料と請求していたのだが、行方不明になったために追っかけてきたのだ(初めてここに来たのではないことがあとで分かる)。美都子と谷(夫)の関係がニアミスになる一方、玲子と夫との関係、そしてさなえと偽北村との間は、よくなろうと努力しても、すれ違うばかりである。
逆に、埋められた晋吾に未練があるのは、暴力を振るわれ慰謝料を請求しているはずの前妻の美都子であり、夫の暴力地獄から逃れるために自分が殺害したのにもかかわらずに、いまの妻さなえでもある。さなえと美都子は、同じ被害者であるにもかかわらずに、三角関係のままである。それは、まだ埋められた死体(これは大きな木の近くではないのだが、象徴的にそこに埋められているかのように思われてしまっている)が、生者を見つめ、思わせているからであるかのようだ。
偽晋吾もじつは、逃げられた(捨てられた)妻子に未練が残る。持ち続けていたゆりちゃんの写真は飲み込んだけれど、忘れるために時間はまだまだ必要であろう。ラスト(警察との融和)はほろりとするテレビ的結末といえばそうだ。ここでは、破綻のままではなく、待つ時間が未来にありえるのだ、という形での希望が語られる。
悲惨が悲惨を呼ぶ‘カタストロフィーもの‘ではなく、また悲劇はすでに過去としてそのあとの時間が丹念に描かれれている。日常のなにも起こらないものではないが、そこには、もっと平板だが穏やかな日常を未来として予感できる生活者としての余裕が舞台には生まれていた。
ところで、「笑役」はだれだったのだろう。NYに出張にいったあさみさんという谷(=夫)の愛人が、笑顔を絶やさないという玲子による想像があったが、それではないだろう。偽北村の道化的な役回しのことだろうか。どうもぴしっと分からないなあ、残念。ただ、ショー的な部分があったりして、どこかピエロ的でペーソスに溢れた笑いがたしかに、舞台にはそこはかと漂っていた(それが救いを感じさせる重要な雰囲気を生んでいるのだった)。「笑いや苦(にがさ)」が漂うって意味かな。
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