Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》HORIUTI
いつもとまるで違う姿だった。午前10時少し前。マンションを出てすぐ。
小さな川沿いに歩き始めると、それは、眼前に迫っている、圧倒的な美しさで。
山の縁から真上の空に向かってピアノ線が無数に張られ。
いまにも一斉に鳴り出しそうな感じがした。
眩しすぎる男山がただそこにあった。
いつもと同じ道、同じ景色のはずなのに。
こんな量感のある緑を体験したことを思い出せない。
靄がかかることの多い春のうららかな日差しの平凡な朝である、それも数え切れないほど繰り返した二日酔いによる後悔とちょっとした夫婦間の諍いによる朝の反省。なのに、マンションに戻って芳江を呼んで来たいと思った。大声で、これは空前絶後の景色だと叫びつつ。
それまで二日酔いと反省で暗い気分のままにいた数時間が吹っ飛んでしまう。もちろん自業自得な頭痛はするのだが、構えずにいる受け身の自分が光の受容体としてとても相応しい状態だったのかも知れない。
その日差しに照り映える男山の緑のまだらな立体模様には、何か決定的なボリューム感の欠如と異次元的な違和感、時間が止まって逆流するかのような神秘性がある。山の稜線と青空の間にいわば決定的な時空の差があって、山の方は何処かで見た油絵を必死で思い出そうとさせる。
石清水八幡神社がそこにあるからというのでもないのだが、一口に言って神々しい。こういうとき、神(仏)を感じたと言ってもおかしくないし、この美しさが日常の繰り返しのありきたりな通勤路にあるということが、不思議すぎる。
(なお、帰りは太陽が男山の背後に回ったために何の変哲もない景色に戻っていた、近くで見上げる新緑はたしかに香るように揺らめいてはいたが。)
圧倒された遅い朝の通勤途上で見つけたチラシに誘われるように、立命館大学での講義の帰り、岡崎の京都国立近代美術館へ向かう。
向かう途中、浅い水路に鯉が二匹、水から出るように置かれていた。死んだ鯉なら横転する。動かないが、まっすぐにそこにあるから、きっと置物である。でも、誰が何のためにしているのかなあ。
手にしたチラシは、今週で終わる『彫刻家 堀内正和の世界展』である。そんなには期待していなかった。すーっと回ってから、4階の常設展の方が楽しみなぐらいだった(常設展で馴染みの作品に挨拶をするのは旧友を年始に訪ねる感じがして好きなのである)。
いまどき彫刻家という肩書きも古風だし、第一そのタイトルは余りにもありきたりだった。堀内正和の野外彫刻は日本中いたるところにあるといっても言い過ぎでないほど見ているような気がするし、現代アートのさまざまな実験を知っている現在、中途半端に古典的な印象が強かった。
それが、1階の作品を眺めて、3階の会場に上がったとたん、目の前に現れる赤い作品に、目が覚め心に澄み渡る「何か」を感じた。抜かれた円筒形に吸い寄せられ、線上の彫刻の影が二重にできるさまが、ぼくに言い知れぬ興奮波を引き起こした。
それは、今朝の男山と同じぐらいの意外性と大きな誤算だった。もちろん嬉しい誤算という落差。
展示も背後に回れるようになっていて、ぐるぐる動きながら、正面だけでは気づかない立体のボリュームを堪能するように工夫されているのも嬉しい(ただ、骨抜きサイコロだったと思うが、それだけは、壁に台がひっついていて後ろに廻れずに残念だった。それに照明もあんまり工夫していない感じだった)。
具象彫刻はとりわけ退屈することが多いぼくが、初期のかわいい子どもの像にぞっこん惚れてしまった。どちらもごく小さなもの(戦後すぐなので物資もなかったからかも知れない):
木彫の「壺から呑む子」の素朴さ、「壺をだく子」の愛らしいほっぺは普遍であるし、自刻像の伸びる後頭部がすでに模写的写実とはほど遠い信念を感じさせられる。一方、「行香(あんこう)」の僧侶の後頭部には、パウル・クレーの線画を連想させられ、批評精神(反骨さ)の所在を感じたりもする。
ユーモラスな「ウィンクするMIMIちゃん」は、仕掛けがだいたい想像できる楽しさがあるけれど、やっぱりびっくりもするしほのぼのもする。まっすぐ見ているのに右目は右側のウィンクへと曲がり、左目は左端のウィンクへと分離される浮遊感が、素朴なだけに、何度でも味わいたくなる。
また、同じ覗きもの(そういう意図ではないだろうが、どうしても覗くしかないように、穴が二つ横に並んでいる)でも「Cycloposcopos Cycloposcopos」になると、覗く者の目玉が反射して見えるから、機知や諧謔の要素がそのほのぼのさに交じってくる。「半分おちそう」、「ひねくれプリズム」、「お尻があつい」、「アップルカップル」という標題のひょうきんさはすでに初期の「Cubi Cubi」(首とキュビズムがダブっている)から見られ、「のどちんことはなのあな」で頂点になる。軽妙なエロスというか諧謔な色気っていうか。
さらに、作品づくりの過程を知るのに重要な小型紙彫刻(ペーパー・スカルプチャー、マケット)やノートが展示されていて、数学者みたいな緻密さを楽しむ彫刻家の姿をうまく展示していたりもする。マケットを創っているときが一番クリエイティブなのだろうということは容易に想像がつく。それを金属などにするのは、信頼する技術者の仕事だったわけで、素材にこだわるようなやり方と正反対な理数系の美術家の全貌がよく分かる。
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