Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》WAKAO Ayako&THE CLASSIC
昨夜から寒くなった。季節が1ヶ月以上舞い戻った感じだ。そんな寒い日に、なぜか偶然の重なりがつづいて起きた。
第一の偶然の重なり。
行き当たりばったりに日本と韓国の映画を2本見たのだが、製作年代はずいぶん違うけれどどちらもメロドラマ(社会告発性の強弱の違いはある)で、どちらも愛する男が出征して残される女が悲しみ(泣き)、なんと男がどちらも失明する(原因はずいぶんと違うだが)という偶然の一致。
もう一つの重なりは、自分が若い人から2度も親切にされ驚いたという重なり。
はじめの映画を見たのは京都文化博物館でだったのだが、これは禅宗の『白隠 禅と書画』展を見たあとに、13時半から上映される映画を知り興味深かったので、食事を外でして、もう一度博物館に戻って500円を払って映画を見ようとしたためだった。
すると、展覧会の受付の方にいた担当の女性が走ってきて、「少し前に展示を観られましたでしょ」という。半券を見せればそれでいいのだそうだ。これはまあ仕事上の親切だけれど、わざわざ見つけて飛んできてくれたことにずいぶんと感謝したし優しさを感じた。
そうして一つ目の映画(増村保造監督『清作の妻』1965、大映東京作品、93分モノクロ)を見終わり、今度は京都みなみ会館で涙ポロポロ(とくにはじめのところ)になりながら韓国映画(クァク・ジェヨン脚本/監督『ラブストーリー』2003、129分)を見終わり、京阪電車で帰る途中のこと。
席でくしゃみが止まらなくなり、ハクションハクションの連続。ティッシュかハンカチを探していると、脚を組んでイヤホンをしていて文庫本を読んでいた若い男性(典型的なジコチュウスタイルかと思いきや)が、その彼がすーっとティッシュを差し出してくれたのである。びっくりして、でもとても感謝したわけであった。
さて、京都文化博物館映像ホールプログラム「特集映画女優若尾文子の世界」、きょうは、『清作の妻』(原作があって、脚色をしたのは新藤兼人)。この増村保造監督は少し以前レストロスペクティブ(回顧)上映があった監督で「早すぎたモダニスト」とか再評価されている監督だったとあとで気づく。
ローアングルのカメラ視線があるかと思うと、斜め上からカメラが切り取る映像があったりして、視点はいろいろ。一番小津安二郎作品と違うなあと思ったのは音楽(山内正)の意味性で、これはずっと陰鬱な感じに塗り込められ事件のにおいに満ちていて、いささか特定の色合いとか意味を出しすぎではないかなあと感じた。
でも、『清作の妻』を観ている最中は、監督の作り方を見ていたというよりも、ただ若尾文子が演じるお兼のつかみ所のない(投げやりで)受け身な女性が、男と出会ってから徐々に変身していく瞬間瞬間を見逃すまいと思って凝視していた。
じつは、囲われていた老人の死、父の死、そして母の死によって次第に自分の運命との向かい合い方が厳しくなっていくとともに、智恵遅れの平助を母の遺言で引き取るあたりから彼女の能動性が少しずつ顕在化していたのではあったが。
1965年でもモノクロ映画は結構あったのだろうか。この映画では凄惨なシーンが色彩を伴われずに描かれることでお兼の狂気に少しクッションを置いて見られた気がした。これはお兼がもっとも能動的に時代と切り結んだ瞬間でもある。
が、そのあと「模範青年」であった夫の清作(田村高広)が、お兼に両目を突かれたことによって、ずっと村八分にされ妾経験をさげすまれてきたお兼の孤独をはじめて理解する。このところで、この映画を作った意図の一つを心から納得出来た気がした。それまでは、反戦とか貧乏な村の社会告発とか、それなりにテーマは溢れてつつも、イマイチしっくりこなかったのであるが、これが最後に男女の一つの真剣なメロドラマのパタンとして捉えることが出来たと思う。
他方、メロドラマとしては、もっともっと典型的でありがちな運命のいたずらが満載された『ラブストーリー』クァク・ジェヨン脚本/監督(韓国、2003、129分)。ところで、『ラブストーリー』というは邦題で、英語題では「THE CLASSIC」。韓国でもこちらなのだろう(たぶん)。ということは、この映画はメロドラマというジャンルのクラシック性(古典性、典型性)を意識したものでもあるわけだ(35年前の純愛をいまに持ち込むという面での恋愛古典主義という意味もあるんだろうが)。
ホントに、涙涙の映画(観客だけでなく主人公たちも歓びまたよく泣く)でありながら、それでもけして観客におもねず真っ正面から映画の歓びに立ち向かっている姿が素敵な映画だなあと思った。
先に観た『清作の妻』の頃の日本映画は、きっとこの『ラブストーリー』はじめ、いま輝いている韓国映画群と同じように、映画の可能性をずいぶんと信じて作っていたのだろうとも思う。
娘ジヘとその母ジュヒ(若いおさげの青春時代)の二役をするソン・イェジンみたいな女優さん(清純なお嬢さん役を皮肉でも嫌みでなく演じきる)はいま日本に果たしているのだろうか。ちょっと前なら松嶋菜々子かな。ぼくは画面を見ながら大竹しのぶをもっと美人にしたタイプかなと思った。なおインターネットのある掲示板には「さとう珠緒似?」とあった。
恥ずかしながら、高校生時代のジュナ(チョ・スンウ)がジュヒと綺麗な田舎で出会うところですでに涙が自然につーっと流れて、親友になるテス(イ・ギウ)との三角関係になるまで、うるうるしぱなっしだった。
そのあとは、少しメロドラマのパタンが余りにも多くこれでもかこれでもかと出てきて、その素材(たとえば、雨と傘、偶然のプレゼント、そして偶然の一致、時を超えた結びつきを演出する手紙、メールの代筆、ペンダントなどなど)を楽しむ自分があったため、ほかの人たちはこの辺で感涙しているのかしらとかそういう少し突き放した雑念がどうしても多くなる。
ただ、韓国の若者がベトナム戦争に出兵するシーン、ベトコンと戦っている様には、他人事でなく、日本の先輩としてのアメリカ協力の姿(基本は反戦か厭戦)も見ることが出来、映画は多くのことを語ることが出来るのだとつくづく思う。それが、娯楽映画であったとしても、いや、大衆に愛される娯楽映画であるからこそ。
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