Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》BLUETIME-YAZAKI TAKESHI
5月20日にオープンした高松シンボルタワー施設。海側の野外ステージでは地元の人(たぶん)がブルースを演奏している。人は少ないが、遠くの木陰に家族連れ。風船を小さい子どもがもらっている。ここのスペースを活用するのはこれからだろう。
ガラスの吹き抜け空間、デックスガレリアに入る。昨日いた東京国際フォーラムの小型版みたい。ドコモの宣伝。にぎわっている。楽しそうに人が往来している。やっぱり新しい空間ができると嬉しいなあと思うだろう。ただ、この場所は南へと住宅地が伸びている高松市にとっては、北の端。市外の人がJRとか高速バスでやってくることが多い場所になりそうだ。海からのアプローチが欲しいところ。
さてサンポートホール高松。ガレリアのエスカレーターを登っていく。愛知芸術文化センターがやっぱりこのようなガレリアでダンスと音楽、映像のコラボをしていたが、そういうことを、もっと身近なスケールでやれればいいなあ、そうしてできそうな感じだなあと思う(今日のアフタートークでもそういうことを誘導質問的にした)。
3階が大ホール。入口に列。フルートのコンサートらしい。当日券が売り切れということ。ダンスが終わってからのぞくと随分と立派なコンサートホールになっていた(反響板が下りているからだろうが、演劇でここを使用する所はかなり限られそうだ。やっぱりミュージカルか)。県立ホールが半年間の補修にはいるという。そのあとに集客の問題が控えているわけか。1500席。1階だけで1000席。横に広いので演劇も何とか600名ぐらい入れれば格好はつくか。
第1小ホール。プロセニアム型ホール。ヤザキさんはこちらの方がよかったのではないのかと実際に訪れる前に図面を見て思っていたそうだ。312席のホールに入れなかったが、結果論としては、照明などの容量のことがあったかも知れないが、第2小ホールでのダンス公演もなかなかにいい感じがした。300名がキャパだが、ステージを張り出したりすれば、150名ぐらいでちょうどいい感じ。
第2小ホールは、パステルブルーがベースのホール内、薄い木の色。青がかった緑の椅子。椅子は移動観覧席だが、割と揺れは少ない(終わってロビーにいた4回生の中條さんとそのことを確認。彼女はバイトとしてここで働いているのだ)。天井の照明が長方形で、それがびっしり並ぶもの。とても面積が大きく、これが公演のはじめに気になった。
ヤザキタケシ&アローダンスコミュニケーション『ブルータイム BLUETIME』ロングバージョン。14:06〜15:02。東山青少年センターの試演会からはずいぶん変わっていた。ラストにあったヤザキが手紙を読むシーンが半ば(よりもちょっと前半よりか)にあり、しかも佐藤健太郎に変わっている。フランス公演での評価もよかったそうで、それは単に日本趣味が受けただけではないことも確認できて、東京から京都に帰る「ついで」に寄ってよかったと思う。
それを表していないとしても、こちらがわでかってに深刻だったり陰鬱だったりする(blueな)いまの世界のことをどうしても感じてしまうようなシーンの中に、ふーっとしたくつろぎ、無邪気な遊び、楽しいことをしてしまう若さの充溢のとき(time)がある。
一日の狭間に紛れるブルーなとき、ときに間に合わない未明から夜明け前のあいだのつながりととぎれに無数にざわめく間。ブルーな地球の一周のあいだに起きてしまった取り返しのつかない時間。時と時の間。空間の隙間、空と空の間。空と時の間。
でも、ここにある人間たち3名の間は、社会的事件を表すのではなく(もちろんそれらに影響され翻弄もされるかも知れないが)等身大に創り出し、そこでいきている人と人との間である。磁石や鏡像から紡ぎ出す間。照明が明るいところと暗いところにある境界を意識させ、そして消していく。
男と女、少し年齢の上の人と若い人との間、背の高い人と低い人との間。つまりは、数ある人たちのなかからそうして出会ってしまった人通し、仲間たち。人の間、身体の間、顔の間、息の間。気持ちの間、思いこみの間、思い出の間、悔恨の間。
間はあるようでいつしかなくなるから、間であり、ずっとあるものは、空の間でも時の間でもなく、永遠の相に見える立体造形となる(そこにも移ろう影も闇も人もあるが、それはまた別の機会に考えよう)。音と音との間もある。怖い音響に被さってオルゴールが可愛く鳴り終わって。
拍手、また出てくるぐらいの拍手が続いたけれど、すっきり一度だけの挨拶。そのあとにトーク。ヤザキの他、踊った松本芽紅見、佐藤健太郎も出て、司会の女性(どこのどんな人か聞かなかったと思うが、自分の感想とか言っていた)に答え、トークの後半は積極的な質問に答えていた。こんなにアフタートークに残ってしかも質問する場面にはあんまり遭遇しない(といってもぼくは最近すぐに帰るからいい加減な感想だが)と思う。
闇はきれいに闇。非常灯も消すことを事前に告知ずみ。そのあとに、4つの簾の横にある電球が点ったり切れたり(同じような音)。そうすると、天井の白い長方形(照明)がやけにくっきりと浮かんでくる。やっぱり天井や壁は暗い方がいいのだなとこういうシーンを考えると思ってしまう。ただ、ぼくが上手側の後ろに座っていたからそう思っただけで、下の方だけを見れば十分にダンスを堪能できる。あと、少し気になったのは、カメラが動くこと(地元のテレビ局の撮影だったのかも知れないが、これは人為的なものなので避けて欲しいもの)。
特に公演に居合わせて、印象に残ったことをいくつか。
○3人が日頃のワークショップから見つけた何気ない動きを各所に挿入しているが、それが子どものダンスにかかわっている人や小学校の先生にはとても興味深く思われたということ。身体の遊びについてのさまざまなヒントがコンテンポラリーダンスにはあることの確認。
○ヤザキタケシが舞台上から下りてきて、休憩ではないのだが客電もついて、普段着の語りかけをする後半のはじめのシーンで、とても客席がほっとため息をつきもし、とても親しく感じて安らいでいったこと(もちろん恩師と同級生とか関係者もいるが、ワークショップに参加した人とかとも交流がこのステージを成り立たせていたことを確認できる)。
○ヤザキのソロは、はじめが奥から前へと進み出るダンスで、照明が奥から前へと床を照らしている。3人のカラフルなジャージ姿でのダンス、ロックンロールやビートルズのHELPに合わせ。その楽しさを反転させる形でのつぎのヤザキのソロは、同じ明かりのもと、今度は前から奥へと後ろ向きに進む。バランスを崩し、闇に足を入れてしまったりして。
○「コンテンポラリーダンスは初めてです。このコンテンポラリーとは何でしょうか?」という質問が会場から出たらどうするのかなあと思って見ていた。
一応の想定問答:
「コンテンポラリー」の「コン」は、コミュニティとかコンセンサスと同じ意味を持つ語幹で、「一緒に」という意味なんですね。そして「テンポラリー」、一時的と訳されますが、「テンポ」はテンポがいいとかいいますが、時とかその「間」の長さのことですね。
だから「コンテンポラリー」で、「一緒に同じ時を持っている」という意味になります。「同時代的」とか「いまに生きる」と訳するのはそのためです。ダンス以外にもコンテンポラリーミュージックなどとも使えるわけです。見ている人とやっている人が同じ時代に生き、同じ空気を吸っているダンス。そんなところでしょうかね。
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