Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》CHANGHAI WOMEN

vol.547.
7/27(火)
ポン・シャオレン監督『上海家族』京都みなみ会館

久しぶりに京都みなみ会館へ。どちらかが50歳以上の夫婦には割引があるようになったそうだ(政府主導らしいが)。でも、なかなかここの会員になっても鑑賞券(1年間で8回)を使うことがないから、今年12月に、閉館した京都朝日会館の替わりに、アートシアター(「京都シネマ」)が復活しても、そこの会員になるほど映画が観れるかなあと、この前院生に勧められたとき思った。

『上海家族』2002年、中国映画96分。英語題はCHANGHAI WOMEN。母と娘(祖母と母の関係も丹念に描かれているので、2代に渡っての母と娘の生き様ということになる)が現代の中国、大都会上海でどう生きていくのかと描いた作品なので、「WOMEN」とする題はより直接的で、邦題よりも分かりやすいとおもう。

監督はポン・シャオレン。上海を愛する女性監督でチャン・イーモウらと同じ世代だが、大時代を描くよりも個人の感情をきめ細かく描く次の世代に近い監督だということ。エキプ・ド・シネマ発足30周年記念作品。岩波ホールらしい作品。ただ、チラシ(写真の感じや活字、色合いとも)はどう見ても30年ほど前のテイスト(上海のいまが日本の高度成長期と似ているから意識的にこんな感じにしたのかどうかは不明だが、チラシを見てそそられる類のデザインではない)。

この映画では、大家族で暮らしていた伝統的な中国社会から、ようやくアパートの一角を区分所有すること(マイホーム)で「現代的」な暮らしになるいまの上海における「家族」の変貌が描かれているから、邦題もまあそういうことかとは思う。

が、父権的な旧来の「家族」の喪失から家族の小型化=核化と崩壊、そして女性の自立という流れなので、方向は逆である。夫婦中心の核家族の不安定さ、子どもと親との結びつきが直線的で、昔のような叔母や叔父、祖母らとの複線的な家族力学が働かない変貌がよく現れているから「家族」という単語が的はずれということではないだろう。

ところが中国題は「假装没感覚」。平気な振りを装って、とか、感じないように、とかいう意味らしい。英語題と同じく「家族」ではなく女性がどう生きてきたかということ。これはまさしく、はじめ夫に従属している妻だった泣いてばかりの母(リュイ・リーピン)が、15歳の娘アーシャのために離婚し、実家で肩身の狭い思いをしてすぐに再婚し、そのあいだ、ずっと自らの感覚をマヒさせ感じないようにして、ひたすら娘のため強く生きていく振りをしていたことに対応する。

つまり、原題は、再婚した夫が無教養で超ドケチなのにうんざりして離婚するまで、何とか辛抱して平気な顔をし、実直そうな夫への感情などなくても、再婚して家に住めるためには、ただただ可愛い花嫁になり初夜を迎える苦労を示すために、つけられている。

それにしても、風呂を週1回しか入っていなかったのにおまえら(妻と娘)は毎日入るとなじる夫のけちさ(母はそれでアーシャの髪を切ろうとしたのか。あるいは性的な眼差しに対する防御だったのか)、さらに妻がせっかく買い与えたブランドのシューズを、汚れると言って取り替えに行く再婚夫の必死さ、初夜で息子のポスターが落ちるところなど、みじめな感覚が交じりつつも、笑ってしまうしかない滑稽なシーンもある。

リュイ・リーピン演じる母の変貌が、じつに身につまされて、中年以上の私たちには一番印象に残る。が、彼女の名前はずっと「アーシャの母」というものでしかなく、ただ教師なので○先生と最後の方で言われたのみ(○は確か「林」?)。でも、教師という役割でのみの名称であることでは、アーシャの母と違いはない。

そして、はじめの夫から奪った慰謝料(愛人が海外に去った夫もいいマンションを売ってその半分でその慰謝料を払ったらしい)で、母が自分の家を手に入れ、ようやく、固有名詞の自分になる、その家は自分の名義の家だから。もう、「没感覚」を「假装」する必要はない。
閉ざしていた本来の五感が解放される。本音が言える幸せ。

でも、そこはまさしく都会の真ん中。騒音は半端じゃない。新聞紙が張られた汚い壁、窓からは高層ビル。新宿とか池袋の高層ビルのすぐそばにかつてあった(いや、いまも在留外国人などが多く住んでいるような)どや街という感じのアパートの一室。母と娘がようやくユーモアを交えて(本音を遠慮なく)話せるようになる。そこにあるのは、自分で手に入れることの自由。どんなにぼろく、周囲は危なく、しかもうるさい場所であっても、夫や同居している弟夫婦などに気を使う必要がないことの気安さ。

この映画には、美化された感情も風景も抒情も追憶も含まれていない。カメラワークもほとんど無骨なまでノーメイクだ。でも、上海の雑然とした風景には、どこか許せる懐かしさがある。大阪に何だかよく似ていると思う。昨日訪ねた山科ハイツ(30年以上経っている大きなアパート)の通路や中庭とも通ずる庶民性がある。いまの山科ハイツでは見られないだろうが、かつては牛乳屋(映画では、光明乳業と書かれていた)がビンを配っていたのだろうとか、映画のディテールにずいぶんと反応した。

叙情的なシーンがないわけではない。それは「水辺」である。浮き雲を見るのと同じように船が行ったり来たりするのを見るのは時を忘れる。すべて、水辺(海に近い大阪なら大川みたいなところだろう)で、アーシャもアーシャの母もぼーっとする。ここだけ、時間のテンポが緩み、ぎすぎすした人間関係のやりきれなさと無縁の空間がある。

水辺とは、自転車を降りて佇む場所だ。自転車で通学する繰り返しの日常、自転車で実家に戻ってきたりもした、おおぜいが行き交う人の群に圧倒されながら。でも、水辺は、どこにも通じていないから行き止まりになれる。自転車から降りる空間に時のよどみができる。「水」への思いはやはり人工ではない安らぎであり、さらに、違うどこかへ通じる他界性が、海、川、水辺にはある。

家に戻れば「水道代」として水も商品となるが、水辺にはそんな生活臭もひとときなくなる。これはひとときの逃避でもあるとしても、母と子どもだけになれる原点が、そしてラストの窓辺の下が、この映画で唯一象徴的に描かれた堤防のある風景なのだ。

そう、だから「上海家族」というよりも、「上海、女の家」だ。上海の女性にとって自分自身の「家」を得、そこで自由に住まうことの大変さと意味を描いた映画だというのが、最後の明るい部屋のシーンで明らかになる。見違える部屋。どんな立派な高層マンションでも得られない風が川辺からそこには吹いて、花柄のテーブルクロスを揺らしている。


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