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vol.543.
7/3(土)
ボーダレス・アートギャラリーNO-MA『私あるいは私』&セレノグラフィカ『それをすると哀しくなる』西陣ファクトリーGarden

静かに町を行く。滋賀と京都の町屋を、ふらりと訪ねる日になった。
長閑に路を歩く。つい、細長い町家の薄暗さに目を凝らして見てしまう。
快速に移動する列車を降りると、そこからは低速のギアに変える必要がある。

近江八幡の町を歩く。道の突き当たりに、ブロックで小さく展覧会の表示。
ボーダレス・アートギャラリーNO-MA開設記念企画展。
『私あるいは私』[静かなる燃焼系]の鮮やかな黄色い表示が、道の下にちょうどいいぐらいの控えめ感でこのあたりにギャラリーがあることを教えてくれる。入口近くに滋賀県の社会福祉事業団の人たちがいる。昨日はオープニング式典があって国松知事が長いスピーチをしていたそうだ。

今日は来客もそんなに多くなく、すこし担当者もギャラリーも、肩の力が抜けてほっとしている感じ。作者たちもはたよしこさんの顔もなく、静かな町屋、以前の野間宅そのもののような錯覚すらする。町屋の展覧会にしても公演にしても、内容が同じ分量の美術館や劇場にくらべて、数倍の時間を、その町屋で過ごすことになりがちである。ただぼんやりと、何かを見ていたり、ちょっと触っていたりする。

気づいているのかそうでないのか分からないような微音、微温、質感、湿気、微磁気、滑り、てかり、くすみ、振動、微臭、微香に身を任せているうちに微睡んでいたりすらする。アーツ自体を効率よく鑑賞するだけではなく、居心地のよさそのものを意識せずに味わっているからだろうし、今日もまたそうだった。

入ってまず、伊藤喜彦の作品群に出会う。目線よりも下にある鬼面が、徐々に上の方に展示され、また蛇の鬼の顔になると、下の方に置かれている。
柱に組み込まれた小さな画面では作者伊藤さんの日常が撮されている。スーパーでこれはいいとか値段を言っている伊藤さんの顔は細く穏やかそのもの。

化け物だと恐れられてきた鬼とは、人間の隠された部分そのものであり、真実であるともいえ、伊藤喜彦の手にかかるとこれほどに優しく繊細な生き物でもありえたのかと気づかされる。赤く塗られた面と塗られていない面があることでどこかとぼけた鬼になっている。

次は初代宮川香山の部屋。その飛び出す浮き彫り技巧が超絶すぎて、もう狂気とか異常とかとすれすれのへり、マージナル的で、いや狂気と正気の線上というかボーダーラインにあるような(そんな区別がちゃんちゃらおかしいような)工芸作品である。背面も正面なく一縷の手抜きも許されない。細かい手書きの模様に特に反応する。猫好きにはたまらない水指とか。

障碍のある伊藤作品と色々な面で対照的でありつつ、強靱な意志の張りを見せる点では共通であり優劣つけがたい両者の陶器。ボーダレスというギャラリーの意図を鮮やかに見せている展示となっている。伊藤の部屋と宮川の花瓶とを行ったり来たりして見比べる。美術館だったら効率よく次の作品に導線づけられるのだろうが、ここは町屋。まず1階のこの空間を満喫するまでいることができる。

2階はあとにして、部屋用スリッパを脱ぎ、ガラスを開けて縁側に出る。ちゃんと中庭に出るスリッパが置いてある。ここも町屋的なやさしみである。蔵の前では6/20に八丁堀で結婚式をした蔵の中の作者高嶺格と彼女の写真が掲示されている。そうっと蔵の引き戸を開け、また閉める。冷房はない。

暗闇に目が慣れるまで立ちすくむ。水槽があって、後ろから映像が映されている。高嶺格特有の世界。節穴から外光が少しだけ漏れる。長椅子がありそこに腰掛ける。

若い女性の裸が水中でゆらゆら。ぶくぶくという空気の泡が光の粒となって立ち上がる。水槽の中の水は八丁堀の水だという。写っている女性が高嶺格の彼女(結婚式をこの水の上でした)であることを知っていると、昔からこうしてここに写し出される運命だったのかしらとすら思えてきてしまう(が、いうまでもなく、そんなことを知ることはどうでもいい)。

この映像は京都芸術センターでも見たが(1998)、ここで見るともっと夢に近い世界になっている。蔵で起きた何かしらの事象とも関連していくようにも思われる(この蔵で事件があったということは聞いてはいないが)。実際、気温をはかるものみたいなのを持ってきた女性の人が入ってきたとき、はっと目が覚めたが瞬間、時がすーっと走り去った気がした。30分はいたかも知れない。シャツのなかに夢見たときと同じような汗が流れていた。

2階へ。76歳の元市議会議員だったという岩手在住の岩崎司の作品。すごい迫力。精神を病み、ベッドだけの空間で創り上げる書画である。額装がとくに感じ入る。スーパーのチラシを丸めて装幀しているのだが、そこには執念というか律儀さというか、その分量が通常のぼくたちよりも数倍多い分、ペンの自体のこぶにもそれは現れ、圧倒される詩となってここにあるのである。展示されている岩崎さんのはたさんへの手紙にも感動する。

となりに、森村泰昌のフェルメールの部屋。中には入れないが、のぞくとどうやってフェルメールの絵画を再現するかを研究し探索しているかがよく分かる仕掛け。でも廊下でながされていたDVDに見るように森村泰昌作品では、大勢の人たちがかかわってこのフェルメールとの対話をプロダクションしているわけで、ある面、ベッド空間一つ、ペンと短歌吟唱だけで世界の古今東西の人たちと通じ合い、世界の奇観を再現し観照し合っている岩崎司の方が、ずいぶんと自由ではないかと、ぼくには思えた。

少し早いがすでに空いていた西陣ファクトリーGardenへ。今日は、ダンスユニット・セレノグラフィカ〜町家の中に、卓と椅子のあるダンス。〜『それをすると哀しくなる』公演なのだ。近江八幡の酒屋さんで買ってきた瓜の粕漬けを渡す(胡瓜の方は自宅用)。少ししてやっと冷房が入ったことに気づく。すごい。屋根の修繕とかがあって、大家さんが一緒につけてくれたのだそうだ。パフォーマンスする部分にもあって静か、ダンス公演中はこちらだけつけていたという。

19:10〜20:01。セレノグラフィカのダンスは京都芸術センターで稽古していたときに目撃したこともあり(いまどき一番ではその部分は流れなかった)、とても親しく思いながら見た。そして、こうなっていくのかと照明(岩村原太)とのコラボを楽しんだ、

さらに、リコーダー群を優しく可愛く、ときにスウィング(巻き舌で吹くと唸りみたいなコブシになるらしい)して吹く迫田浩一音楽で新鮮さが追加されていく。嬉しかったのは、ミニパーティの前にグリーンスリーブスを迫田さんがおまけに吹いてくれたことだった。

机に座って、足の移動をなくしてダンスをする。指人形とか、文楽の人形遣いのことを思う。足だけでなく、手を動かす人の顔までダンスの外になっていくからだ。机のミニマムな動きが床で反復増幅される。ちょっとほっとする。やっぱり動きが大きいとダンスは楽しい。でもぎこちなさはキチンと保全されていて、解放される身体までには大きな道のり。

リコーダー音楽というバロック前期(あるいはそれ以前のルネッサンス古楽)の世界とこのダンスが実にうまくマッチしている。それはハーモニーや複雑な対位法がない世界。延々と反復し変容する。チンドン=ジンタ音楽とも通底する中世的浄瑠璃語りの世界を踊りを見て一番強く感じ、かってにとても共感する。

ただ、ダンスの標題にもあるように、ダンスそれ自体の雰囲気は楽しいとか嬉しいとかいう感情よりも、哀しいとか憂いを感じる、空しい性とかの情緒をより強く漂わせている。音楽もダンスも繰り返しが何かの展開を約束するのではないから、ある種の諦観にもつながっている〜ニーチェみたいな永劫回帰、あるいは西脇順三郎的「存在自体の哀しさ」というと大げさだが。

夢遊病者的に一方向に動く女性をなんとか留まらせる男性とか、梯子を登ってしまうことの無意味さとそれでも登るしかない今とかを思ったりする、かってに。梯子が男によって移され、動き出す目標なくして、ぼーっと動かない女の寂しさを見た。


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