Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》t3heater0407
今日はのんびり観劇のみ(でも、アトリエ劇研周辺はお茶することろが見あたらなくていつも残念に思う〜銭湯でも探してみるか〜でも西陣とか東福寺とかと違いなさそう)。
昼頃、参議院選挙に芳江と行く。投票のあと、t3heater0407『2人の守衛』(作・演出:田辺剛)を楽しむために、アトリエ劇研へ(早く着きすぎて古道具屋で時間つぶし)。t3heater(演劇ユニット)は、年に一度俳優を集めて公演する。ただし、t3heaterの田辺剛は、今月にも作演出(演劇喫茶第4回公演「青空に金魚」生駒市ラッキーガーデンというところなので、劇場でない公演なのだろう)する芝居があるほか、秋以降も作演出が続いている。
アトリエ劇研は、椅子席になっている(背もたれのある椅子が導入されたのだ)。土足もOK(土足のときと靴を脱ぐときとの違いだけでも十分にマネジメントの比較になるかも知れない。場内の汚れの多少、養生、靴袋の有無、観客の面倒、心理的な面などなど)。予約をしていたら、椅子もみやすいところからとってもらっている。そして、好きなところへ動かしてもいいですよと田辺さん。うちの1回生2名がきて入り口の方に座っていたので、奥の方が見やすいと言っていたよと伝える。
15:01〜16:14。ただし当日パンフには「上演時間は約85分です」と書かれてあった。始まる前、奥行きのある舞台美術(川上明子)を楽しむ。遠近法をより強くするだまし絵だよなあと隣の芳江と話している。日本でもなくどもでもないまち。キリコとかシュールレアリスムぽい無国籍性が漂うが、乾いた西アジアとか北アフリカあたりの空気(芝居を見てからの思い:じっさい戦争が絶えないこの架空の国は、どこにもないようでいて地球上どこにも存在する世界であった)。
上手に向かって、塀が近づき大きくなってくる。威圧する塀。塀の一つ、上手側の上部に四角い切り込みがある。中央付近にサッカーのゴールのような荒い網が一つ吊されていて、はじまると、これが裁判所の門をふさぐ開閉式扉だということが分かる。上から吊されていて、門番、いや違った守衛はこの両側に立っている、赤い扉が上に開いているときは。
これもはじまって分かったのだが、この裁判所の塀(壁)は板で作っているのかと思ったら、天井から布が吊してあるのだった。下手が奥まっていて、塀がじょじょに小さくなって、一番奥に小さく青い空が見える。
白い雲。ちょうど初夏のいまの季節がもたらす人びとのかすかな希求のようだ。早く夏休みが来ないかなあということから、別の世界への通路としての港のさきに広がる空までの希求群がそこに描かれている。
音楽は極小の使い方。でも、それは重要な役目を果たしている。裁判所の休憩時間に鳴っていたと思う女の執着。電話がかかってきた男が入っている裁判所の門をくぐる女の執念が、ポルカという幻聴になっているかのように。
台詞よりも移動する身体など、言葉でない身体の位置の変化が重要な意味があるように思える。女が入りそうになると扉の横にいた2人の男の守衛は入口をふたぐ。そして女が遠ざかると元の位置に戻る。野球の賭をしていて遅刻する若い守衛(「北」の者らしい)は、だらだらとさぼる?にも冷たく女の香水に嫌悪する(ところが、後半、がらりと変わるのは、女と通じたからである)。
もう一人の守衛は生真面目。15年やっているというので先輩だろう。きまりを守っている。しっかりと守衛という任務を果たそうとしている。門番ではないというがその違いは許可証のない者から裁判所を守るという意味ぐらいしかその違いはない。
生真面目な守衛は女と同郷(「西」)だと、腕に刻まれた番号が教える(戦争ばかりの悲惨な地方の出身で、どうもここでは征服された民族としてか、「西の者」として差別されている)。坊主頭と柔道の寝技かなにかをやっていてつぶれた耳が怖げであるが、実は妹を戦争で亡くし、爆発しそうな悲しみを抱いている。それが、女を拒否し続けることで、崩壊していく。女がつっかかると逆に女に倒されてしまう。倒れたままに、自分の妹の金髪が川に流れた情景を女に聴かせる。
守衛というじつに限られた権限と仕事しかない男の哀しさ。守衛という仕事(門前を平穏にしておくこと)さえ出来ないために解雇という判断(これはつまり機会警備にして人件費を節約するためでもあるのだろう)を伝えに来る女の事務員は守衛に対してじつに横柄である。その事務員も裁判所(ここが国の大きなシステム=組織全体を象徴しているのはいうまでもない)のなかではちっぽけな役割しか持たされていない末端の連絡係である(だからそういう態度しか出来ない哀しさ)。
以上のように、カフカの『審判』や『城』など不条理な世界、シュールな不可解さを繰り返す世界が、じつに簡潔に(過度にペダンティックに陥らないで)描かれていく。そこには突出するような色気や狂気は存在しない。
といって、つまらなく観念的ではないのは、たとえば、数多くある事務所の存在を、青空の手前に出てくる、色とりどりの旗の美術によって、ビジュアル化する巧妙さがあるためである。さきにいったように、ポルカの音楽の使い方にも抑制がじつに働く音効である。
泣かすのでもなく、笑かすのでもなく。
透明にその立ち位置で芝居を作っていく、そういう世界の人たちなのだろう。
惜しむらくは、役者の台詞づかいの問題(鍛錬の過程なのだろう)や、より濃厚な色気というか立ち上がるような人物像の構築の不足あたりだろうが、台本の可能性を十分感じたし、何だか、その抽象度と具体度の比重のバランスのよさがあったために、見終わってじつにすーっと世界を見通す目線を得たような気持ちにさせる公演だった。そして、どうして守衛を解雇されたとたん、通行証ももらえなかった元守衛と女が扉の中に入れたのかどうか、もちろん、その謎も大切に持ち帰る。
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