Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Asia Contemporary Dance Festival2004
フェスティバルゲートの前の信号を待っていると、ここはもったいない無駄遣いをしたものだと男2人が話していたりする。フェスゲは丸投げだからいかんのだよと思いつつ、Art Theater dBへ。大阪市現代都市協会の面々も多くいる。fringeを見ると、大阪市の精華小劇場もようやく動き出すようだ。さてどんなラインアップになるのか。
大阪現代芸術祭プログラム『Asia Contemporary Dance Festival2004』。今回、ダンスボックスのスタッフはACDF通信というのをこまめに出していて、その記事とダンスの中身とは直接連結するかどうかは別にして、それがあることでとてもアジアが身近に感じられる。きっとこのペーパーに現れているアジアの現在形の動きと今日観るダンスも全く関係ないとはいえないだろうと読みながら思う。それに第一、ダンスボックスのみなさんの肉声が、アジア各地のダンサーを迎えているなかで聞こえるのがとりわけ楽しい。
通訳・翻訳スタッフもばっちり(塚原悠也)で、大がかりなセットを準備してそれを片づける舞台スタッフも、ここを熟知しているのでてきぱきと見ている方も安心してその合間さえ楽しんでいる。金満里さんが車椅子で来ていたので、スタッフが椅子を一時的にはずして彼女を前方に運び入れる。
19:05〜21:10。間に15分間の休憩(舞台+人物設定があるからでもある)。残念なことに、オーストラリアから来るはずだったシャーニ・ペングリィは急病のため、替わりに彼女が主役のモノクロームで擬古調の映像作品が2つ撮される。主役といっても、ダンスのシーンが見られるというものではなくて、映像作家が実験的に作ったものなので、ダンスに関して何かが伝わるというものではなかったと感じた。
エメスズキ「Hibiscus Zyanose 2004」。ハワイアンで満面の笑みが宙を浮かぶ。でもそれは続かない。ぼんやりと、笑みだけが退場できずにしばし残って、いつしか消える。
仰向けに寝ころんで、素足が2本上げられる。なぜか陸にいる何かの鳥の足を連想した。色っぽいというのではなく、また挑発するというのでもなく、どこか無惨さの予感が漂う。といってももちろん老醜への嘆きをウェットに示すのではなく、醒めた目で逃げ場のない自分とその足を眺めているような、そういう奇妙な間合い。
横一線の光の帯が床にでき、そこを若く軽快な足取りから、少しずつ年齢がいって、ついに立てなくなり、はいずっていくまでの半生を簡潔にたどる。まあ、こんな分かったような解釈を書く必要もないけれど、ダンスが見ている方にしっくりくるのだったら、読みとる楽しさがあってもいい。でも、自らの手による首締めのシーンからは、無理やりストーリーを考えるのはよそうと思ったが。
つぎは、映像とそこに写し出される言葉(英語)の字幕を使った「When My Body Lie」。マレーシアのアリフワラン・シャハルーディン。弁髪のような出で立ち。パスポートに名前が長いから書ききれなかったり、ムスリムなので空港でのチェックが厳格だったりした、と先に挙げた通信に書かれている。そんなことを思いつつ、嘘を付くことって何だろうと思うとまたいろいろな連想に襲われる。
ただ、やっぱり映像が多かったり、言葉が多いとそれに囚われたりする。他方、英語を聴きとるのはぼくには出来ない相談なので、音声で流れると(薄い劣等意識が流れることはたまにあるが)無視して音響として聴いてダンスを楽しめる。でもこれのように文字で英文字が写ると意味を読みとってしまって、それも日本語のようにさーっと分からないので、ダンスを見ているどころではなくなることもあり、ちょっとこれは苦手。
でも、特に歯が出た多くの口に向かってぼくたちにダンサーが後ろ向きになるシーンを見ると、若々しくて実にまっすぐにダンスと世界へと身体を向かわせている感じはひしひしと伝わる(でんぐり返りが多くてちょっと単調な感じがするが)。
きょろきょろしていた目(「目は口ほどにものをいい」の諺どおりのもの)が、最後は大きく止まり、赤くなる。
休憩のあと、タイのピチェ・クランチュンに出会う。「The Bathe Ceremony of Phaya Chattan」。座禅しているような座り方、瞑想する像のような。高い所に座っている。知らない間にそこにいたという風情。止まっているようでゆっくりと顔を下手に向かわせ、斜め上へと動いていく。
もう少し天井が高い方が彼は動きやすかったのだろうと思う。となりに置かれた冠を取るときに、天井の明かりに気をつけながらの動きとなった。冠とははじめ分からず、小さな仏塔かなと思われた。象が大きく冠にはつけられていて(勿論アフリカ象ではなくインド象だろう)、これを最後には男がかぶり、象の神様(仏陀の前世の姿という)として背後に消えていくことになる。
小乗仏教の僧侶のような顔つき、頭の滑り、なで肩の身体。タイでは普通のサラリーマンが半年ぐらい仏教修行をするという話を聴いたことがある。タイ人と聴くとだからどうしても自らを処して争わないで諦観を携えている人というイメージがある。
やけにまだら模様な白塗りと思ったら、粉を身体につけていた。その粉が落ちていく。床にできた粉の模様が銀河系のように綺麗だった。土方巽が獣の骨を砕いてそれを身体につけて踊ったという話を思い出した。音楽がオーケストラになって、これがNHKの番組に流れるようなものだったので、これはちょいと残念。でも、今回、タイの神秘が一番の収穫。
最後は韓国のポク・ホビン「Thinking Bird,2004」。
「頭が大きくなればなるほど、羽が小さくなる」というのは諺(教訓)のようなものだろう。頭の小さな鳥が美術として下手前方に吊される。ダンスはモダンダンス的でいままでにもよく見たことのある動きが中心。でも、背景の音楽(はじめ梵唄=声明のようであったが、日本よりもよりホーミーがかっている)はなかなかに面白い。音楽が今度は日本ではご詠歌みたいな女性の合唱に変わる。いい切り替え。彼は、伝統仮面舞踊をまず習ったというが、それは今回動きに特に感じられず、残念だった。
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