Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》SORA-KIRI-SO

vol.557.
8/27(金)
糾〜あざない〜第15回公演『そらきり草』AI・HALL共同製作「還る鮭たち企画」第1弾

伊丹アイホールに行く。

糾〜あざない〜第15回公演『そらきり草』。

作・演出:芳崎洋子(北村想を塾長とするアイホールが続けている劇作の塾出身。劇団メンバー8名全員が演劇ファクトリー出身などアイホールに学んだ人たち)。

AI・HALL共同製作「還る鮭たち企画」の第1弾。19:33〜20:50。
チラシと同じくさっぱりした青空が舞台奥に広がっている。どうも「そらきり」という題にふさわしく、ここは空に近い場所のようだ(舞台監督・美術:岡一代)。だが、都市からは切り離された公園か空き地かビルの上か(はじまってから、ここが空港の見送り展望台であることが分かる)。どちらにしても殺風景なコンクリの舞台。でも、ベンチは青空と同じに塗られ、面白いことにコンクリには、モノクロームの空のような模様が描かれていて、それはときに夏のむっとする蒸気(ゆげ)のように見えたりもする。

当日パンフに「今まで慣れ親しんだ幽霊、鬼、蜘蛛女、幻影の類から離れて、10作ぶりに人間だけが登場する今回は、もののけパワーに頼れぬ分、難航しました。書き直しました。皆に迷惑かけました。その結果、わたし的には十分、自虐的でアイタタな内容になりました」と芳崎は書く。

「自虐」という言葉が後ろ向きだとどうしようかと少し不安になりつつ、観劇。でも、その心配はなく、自分たち自身を追いつめてしかもそこで自閉はしない展開(30代の女の覚悟が気持ちよく青空に映える)に、安堵とともに、「うるうる」する珍しいぼくがいた(お涙頂戴の話ではないのだが、その現実のつらさに向かい合い始める家族の姿に不意打ち状態になったのだとあとで思う)。

この『そらきり草』について、どんなことから書こうか。一応舞台上には9人が出てくるが(飛行機にもう一人いる)、一人ひとりが少し生真面目すぎるぐらいきちんとそこにいる。だから誰をとりあげてもみんな一筋縄ではいかない。彼ら彼女らは、もちろん、脳天気にのびのびといるわけでもなく、細かいことにこだわらないで仲良くやっているわけでもない。ときに野球ごっこで明るく楽しくふるまうこともあるしひととき恋愛ごっこをすることもあるが、99%はつらいことのなかで生きている人たちである。

この人たちをこの飛行場に呼んだのは、須藤典子(大山まゆ)の弟タクヤである。いまフランスに飛び立つ飛行機に乗り込んでいる。このタクヤは、フリーカメラマンだったかジャーナリストかいずれにせよ結婚して所帯を持つような地味な定住生活にはほど遠い。前の恋人、戸越(田所佳子)と今の恋人和田(小西久仁子)が一緒に見送っていて、その2人に話すタクヤの行く手が、危険な戦場なのか、長閑なぶどう畑なのか〜和田の方が騙されていたみたいな感じだが、でも最後までちゃんとは判明していないままである。

この登場しないが重要なキーパーソンであるタクヤとは対照的に、彼以外の9名はみんな日本のここに張り付く普通の「サラリーマンで」である、おおざっぱに言ってみれば。だって、2人の中学生も学校稼業を果たすサラリーマンみたいなものだし、パートに出る典子もまた同じような社会への束縛のもとに、夫孝夫(風太郎〜ピッコロ劇団)に絶えず愚痴る家事従業者である。

典子の昔からの親友、美香(西岡由起子)は、典子と同じ歳とは見えずこの前もパキスタンに一人旅するなどいまもなお独身生活を謳歌しているようだが、30代も後半になってじつは焦ることばかりである。9歳下の恋人(湊公彦)も、かつての美香なら相手にならないぐらい頼りなく女性にルーズな男(彼がいるまえでそんなことをいってしまったりする美香)だが、でもいまの美香には貴重な残り少ないだろう恋人でもある。

美香に小さいときはかわいがってもらっていた典子の娘、真琴(石坂彩子)は両親とは口をあまり聞かない。父親への反発はもっとも強いものがある。中学3年生ならそうだろうとぼくも経験上思う。それがごろりと変わるのは、同学年の中山(佐藤あい)がたまたま援助交際でイチロウ(倉橋里実)とやってきて、真琴がなぜか気があってイチロウと野球の勝負をするからであり、ホントのことをあなたみたいな子どもに言われるからむかつくのよと、おもわず美香が真琴の頬を打つからでもある。

少しここの展開は楽観的あるいは希望的ではあるが、何も変わらないすれ違いを描いて深刻ぶるよりも、何らかの可能性を探る舞台の方がずっと大変だしその努力こそいま必要だろうと見て思う。細かい事実の克明な記述という意味でのリアルであるというのではなく、こうあろうとする当為(Sollen)のリアルワールドへの志向もまた演劇には欠かせない要素である。後者のタイプの劇団が陥りやすいのは観点的な思いこみだけが空回りすることだ。

そういう危険を、この飛行場の見送り場を探し当て、自分たちの心の不安や葛藤を見る第三者の目線を獲得することによって、説得力を持った複数の人たちをそれぞれに描くことができたのではないかなと思う(関西国際空港にこの冬娘をドイツに見送った妻によると、この舞台で話されたような同じようなバスがあり、ここを取材したのではないかという)。告発でも諦観でもなく、援助交際のイチロウまでもがただの悪役ではなく立ちふるまう。一番毒があるのは、元彼女の戸越であり、隠された部分を少し焼け気味にあばいていくが、そのうちに彼女もまた、自分の将来を美香に見る場面に遭遇する(落差があるだけに、一等痛い)。

未来を想像する舞台、そこで痛さを感じることも含めて心が成長する物語、これはかつての青春小説と同じではないか。

飛行機の中で「そらきり草」になるタクヤだけでなく、10代だけの青春でもなく。それぞれの可能性のための(ここでは30歳代の)青春物語。その飛行機雲を見上げながら、どこでも自分の青空に軌跡をかけることは可能だと空を見上げる地上の人たち、つまり日本のここに根付いているしかないサラリーパーソンたちもまた、自分の窓に見合った「そらきり草」の種を播き育てているのだと思えてくるのだった。


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