Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》RINKOGUN=LOST IN THE WAR

vol.553.
8/17(火)
アートコンプレックス1928【ユーモアinダンス】−東西バトル編−

We Love Dance Festivalというのが、東京と京都で行われているらしくて、全体像はまるで知らないまま、アートコンプレックス1928へ行く。ただ、何も知らなくても、その銀色金色に輝くパンフをみるだけで、これが大きな国際的ダンス祭典だと分かる。大きいものなので、主催は実行委員会形式になっている。京都はJCDN代表の佐東範一さんがメンバーで、あとは東京の人たち。ぼくが知らない人もちょっといる(たぶん、ストリートダンス系方面の実行委員なのかも)が、だいたい知っていてふむふむと思ってみている。

この祭典では、「ユーモア」と「ストリートダンス」が今年のキーワードらしくて、「ストリートダンス」ということでは、京都でレニー・ハリス・ピュアムーブメントというストリートダンスをステージ化したアメリカの団体の公演があり、そのDVDをあらかじめみさせてもらっている。東京では国内外のストリートダンスの人たちが集まっているし、審査とか優勝とかあって、かなりスポーツに近いもの(フィギュアスケート出身の人がプロになってアトラクションスケートをしている感じか)みたいで、そういうことを知るのは面白い。

さてダンスのなかの「ユーモア」である。これはぼくもちょいと気になっていて(まだ前振りでごめん)、浪花は笑いの王国と思われているし、やっぱりコンテンポラリーダンスの舞台からも自ずとこびないでしかも楽しませる客との交流が生まれていた(特にトリイホール時代)。ので、その振幅〜コテコテから、コミカルダンス、アングラ哄笑やのほほんお馬鹿系、そして機知の富んだクスッまで〜も含めて、うまく紹介したいなあと思っていた。

アメリカ編やインターナショナル編も東京であるらしいが、アートコンプレックス1928では、【ユーモアinダンス】−東西バトル編−が明後日と今夜、2日間行われる。今日は、Aプログラムで、前半が関東、後半が岡山と大阪。そのためか、岡山の大森誠一さんにまた会う。多くの人。話しぶりからもまったくコンテンポラリーダンス初見者がかなりいて、もちろんおなじみの関係者とともに、ずいぶんと幅の広い客層。初見者のようなお客さんの反応が(ぼくが面白がるものと彼らが面白がるものとが)ぼくとまるで正反対なのが会話からうかがえて、そういう意味でも勉強になる。

研究社の英和中辞典で、humorを調べると「こっけいな、おかしい、時としてばかげた事を認めてそれを表現する力;人・人生に対する暖かい親切・同情・寛大さ、時には悲哀の感情がこもっていること」となっている。これはwit(鋭い知性で矛盾したこと、人の意表をつくことなどを認めると即座に〜しばしば皮肉まじりに〜人が喜ぶような言葉で表現する能力)やirony(実際に表現された言葉と本人が言わんとする意味とが正反対だったり、物の表面〜外面〜と実質とが異なっている時などに示されるhumor)との比較をしている解説で、witのクールさとhumorのほのぼのさの説明となっている。

まず、まことクラヴ(遠田誠は、伊藤キム公演でお馴染みのパフォーマー。ここは電車内、商店街、路地、駅のホームなど公共空間で突発的に野外活動を行ったりしているらしくて興味深い)『ニッポニア・ニッポン』。これは、お辞儀とか長く続く名刺交換、勘定レシートの奪い合いをカリカチュアとして提示しつつ、それを嗤うというのではなく、ほのぼのと面白がって、これもいいじゃない、とゆるく舞台を微笑ます。名刺やレシート奪いから生じる回転技を見ると、柔道の国際試合に見る文化体型差から出るおかしさとかと共通するなあと思ったりする。もちろん、柔道はユーモアで格闘しているのではないのだが。


チェルフィッチュ『クーラー』。横浜の演劇ユニットで、KAVCで初めて見る。二度目だがその衝撃度は薄まらずに、ぐいぐいとそのよさが迫ってくる。とくにダンス的な側面を出すものだったことから、話はまったく進展せず、男女の言葉の投げかけが、かみ合わず会話というものにならない滑稽さを拡大する。超リアルという説明は日本語にかかるだけでなく、身体所作も含めて、その拡大鏡的スーパーリアルタッチに当てはまる。

まことクラブに比べると、チェルフィッチュは、humorというよりも、witな感じか。でも、humorがヒューマニスティックと関係するのだとしたら、チェルフィッチュも、より壊れた人間的な部分であるのは確か。アダム・スミスが道徳感情論で「中立的な第三者の観察」が必要だと言っていて、演劇における市民徳性の寛容効用などを考えているぼくには、humorダンスの効用が、演劇と共通しつつ、よりノンバーバル部分にまでおもりを下ろす点に心打たれる。ダンスがともすると、ヒューマニスティックとは正反対の根源性へと志向することが多いために、難解であり入口の敷居が高いと思われることについても、逆に考えてみる機会となる。

倉敷で結成されたズンチャチャの公演『ラムネ』。「一生青春ダンシング少女」たちが、夏休みの甘酸っぱい思い出に浸る。大勢の女性ダンサーたちがそのルックスとか振付の巧妙さとは無縁に、好きなことをしている感じ。それが岡山らしくて、ようこそ!っていう感じがする。外は雷が鳴って雨の落ちる音。みんな風景になっている。ベタなユーモアもまたいいが、その表面的なぞりに、ラムネの炭酸的刺激が加味されると、ステージでの発表会的段階からもっとすすんでいくそうだ。ただ、ひきつける床ダンスをしていた女性もいて、きっとここはそういうこともできるのかも知れない。

最後は、北村成美『ラベンダー』。いつもならば、もちろんトリはシゲヤンねということで、気楽に見るのだろうが、首の故障あけの初ステージなので、ちょっと緊張が会場に漂う(まだコルセットをつけたりはずしたりの状態のようだ)。後半の激しい動きは大丈夫だろうかとか、細かい足首の振動の時から思っている。でも、心配は杞憂だったと思う。

黒いロングドレスと、派手なラベンダー色のセパレーツ姿の対比が、ダンス自体にも、コントラストの妙味がこの作品のエレメント。ピアノの音と指や手のひらダンスが今回はとりわけよくマッチして心に沁み、客席でのカツアゲから応援しげやん魂(たま)込めも順調に過ぎて、知らない間に、またこれからよろしくとつぶやいていた。


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