Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》BABY-Q**ALARM!
からだに湿気がまといつく。どうも本調子にならない。
ぼくは、振付・演出・構成をし、ソロで音楽家などと即興ダンスをよくするという東野祥子をまるで知らなかった(ソロでは煙巻ヨーコという名前になるらしい)。なんとなくアイホールダンスコレクションvol.35、BABY-Q『ALARM!』の案内をいただいてからずっと関東あたりのグループだと誤解したまま、ホールに向かった。
というのも、どこかいまへの警鐘としての「アラーム」を取り上げる素振りが、それらしくコンテンポラリーダンスの社会性とか政治性とかにもっともらしくスマートにマッチしていて、関西よりは東京の良いも悪くも国際的な潮流に敏感な「頭の良さげ」な振付(というか構成と提示の妙)ではないかと疑り深く思ってしまったのだった。
というような先入観にもかかわらず、開演まで時間を待つロビーで読むチラシの文章は、実は軽くもスマートでもないことが少しずつ分かってくる。ありふれた時代への警鐘とか恐れとか覚醒(目覚まし時計)をテーマにしているちょっと時間がたつとあっという間にご用済みになるようなものではない、と考えなおす(余裕をもっているアーツに向かうというのはだから大切)。
たとえばBABY-Qのチラシは言う、「ある警告が心に響いたあとの世界。」と。
何を警告するのかはもう問題ではなく、警告が過剰に溢れている状態だけが許されている「いま」。警告そのものが目的になるとき、19世紀のオペラを歌う口だけの映像だって、何だって終わってしまった過去を回顧する無駄な警鐘であるには違いないのだ。
そうなのね、もう警告はとっくに響き終わっている。いまでは遅すぎるかも。もう終わってしまった転換点。まがってしまって引き返せない悔恨。喩えようもなく、叫ぶ声も忘れて「埋没するだけ」な、どうしようもない私たち。とりわけ、何の生気も魅力もないのっぺりとした生活保守主義が蔓延している日本国、ニッポンコクミン。
警告がいくら鳴っても、舞台上で火花を散らし、丹野賢一ばりに派手なパフォーマンスが繰り広げられても、何も始まらない。いや、もう終わっていることの確認をしている気持ちの方が正鵠を得ている感じすらする。だから、暗やみに始まる前に、もうこの公演で一番派手でかっちょいい美術のパフォーマンスが展開するのだ。でも、飛び散る火花は心底ぶっとんでいるよ。美術:DESTROYED ROBOT。
黄色い工事中のランプが回る。ダンスもとぎれとぎれの照明。薄暗やみでのダンスの動きにもう新たな発見など見つける必要がないように動いているように見えるのは、こちらの既視感のせいか、それとも。もう何かを発見したり付け加えたりすることなど、ないように思わせる力か。まったく、はじまりの青い光は美しく、これからどうなるかと思わせながら、あとはあえて力を抜いたコントだったりキャバレーだったりする。
小さなアコーディオンが無造作に蛇腹をひくひくさせる。何語かわからない罵声を繰り返す拡声器。この拡声器使いにはぐいっと惹かれるが、それはチープさが意外な効果をもたらすからだろう。それ以外は会話があったが、その隙間を埋めていくようにステージを支配するのは顔の見えぬ轟音、電子音(音楽:HATIHO TOYOTA)、束縛された空間支配。光も人を無視して通り過ぎる。
人の配置は2階のキャットウォークやブースでのシルエットやら、はたまたかごの鳥ならぬ、「かごの人」だったり。このかごは天上から吊されているようにみえたので、いつか、ぶらりぶらりと空中に彷徨うだろうと期待してたらずっとそこにあって「かごの人」は結局束縛されっぱなしだった。
おなら漏らしが一番新鮮であるのも皮肉で知的な落胆溢れる舞台なのである。
始まりだけが美しい。始まる前に勝負が決まっている。どこかで、中断するぐらいに萎えてしまう私たちの心。それらをひとまとめにしてここに映し出す舞台。笑おうとする若い女性が声を出しかけてそれを2cmほど出したところで、失速し空中でなよなよと固まったまま、その縮こまった元「笑い」のかすに汚染されないように、体をくねらす。そんな前方の席を観察するぐらいに、どこまでもクールな気持ちが、こんな刺激的な装置づかいと展開のなかであることが、ぼくにはとてもいまを感じさせてくれる。
ダンスとしては何も創造しないことを課しているかのようではある。
が、冒頭の女性のオナニーからの動きには主知的な分析の痕跡が見受けられる。
映像も小さいがちょっと面白いものも混じっていて、その適度な小ささも、古典的なモニターの山(もちろん引用/参照されているのは、ナムジュン・パイクによる作品)が舞台中、少しだけ腕を出して暴れることとは無関係に鑑賞して楽しむこともできる。
寄り添うフィギュア(人形)が、ゆっくりと降りてくるのも面白かった。その小ささが、マシーンとモニターの醜悪で陳腐な威圧感と対照的で、いまの天使像としての提示の巧妙さに感心した。もちろん、その天使がアイドルフェチであり巨乳愛好である証を映像が明らかにしているのではあるが。
フラットな「のっぺり現在(いま)」を逃れたい。思い出に美化された過去を回顧するのではなく、すっぱりと過去は解雇しなくちゃ。とってつけた過去への警告もまたおさらばね。いまをリアルにダンスとして警告するために。ダンスと警告が説明関係であるのではなく、図と地が絶え間なく反転する入れ子的関係になるために(ぼくはこのステージからゲシュタルト的な目線を一番楽しませてもらった)。
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