Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》KAGERO-MAREBITO
効果的に使われる象徴的な出来事の接合。たとえばキャベツを切っていて、その音に追いつけなくなり指を切ることが、まったく別の訪問者である高校生が拾ってきて捨ててしまう切断された指とつながる。その行き場のないつながりを心にしまいながらこの舞台はずっと心に残るだろう。
マレビトの会という劇団の特徴は数々あるが、演出まで劇作家の松田正隆が珍しく行うという点がまずあげられる。小劇場演劇では、劇団を主宰する人物がいてその人物が劇作をして同時に演出をし、さらに出演もする(制作までもせざるをえなかったりもして)というところから出発して、出演や制作はしなくなっても、作・演出が同一人物であることが大半である。既存戯曲を演出することはままあるが、劇作家として孤独な作業を引き受け、演出をしない松田正隆はとても珍しい。その希少価値のために、まさにまれに作家松田が演出をする「マレビトの会」はそこが魅力であることは確かである。演出のためにはキャスティングをするなど演劇政治のしんどさを引き受けるわけで集団作業の向き不向きを考えると、作・演出の分業体制はもっと小劇場演劇にあってしかるべきだろうとは思う。
つぎに、マレビトの会の制作でありかつアトリエ劇研プロデューサーの杉山準が当日パンフに書いている部分、つまり、「芸術家と劇場が協働して作品を創る体制」というプロデュース的な特徴が挙げられる。その結果として実に劇研ではめずらしい指定席制度(50席だけの椅子席になるが)が行われ、そして、当日席(1800円)の方が前売り席(2000円)より安いという試みがなされている。ただし当日券の入場は前売り組よりも遅くなるし、客席も端になって、前売りとの差違をきちんとつけるように考慮されている。
19:36〜21:09。93分。1999年1月24日ピッコロシアターにおいてこの作品を太陽族の岩崎正裕の演出で観たときは、109分だったと日記に書いてあったから、ずいぶんと短くなっている(16分)。舞台美術も最小限ぐらいに切りつめられ、そのために動きが能舞台のような象徴化されたシンプルさを湛え、共同アパートへの出入りやバス停近くでの逡巡、遠い鉄橋への逃避などを簡潔に描いている。
凝縮されているのにかかわらず、アパートの部屋から出た人物の歩みは遅く、通常のリアリズムからははずれている。だが太田省吾ほどの遅滞する象徴性とかは賦与されず、ただただ外と内との違いをシンプルに表すための演出のように思われる。どたばたするところは、主人公、高校教師の美雪(山本麻貴:99年の初演では花田明子だった)の生徒真理(牛尾千聖、初演では金田典子)と、彼女の兄が退学処分になりそうな真理のことで争うときぐらいで、三角関係が輻輳して絡むシチュエーションとしては、じつに静かな舞台である。
陰影の深い西洋画と形容したが、それは特に前半であり、姉と妹がシルエットで映画のワンショットのように映し出される照明づかいがラスト近くにあるが(stand by meの焚き火シーンのように)、そこでは遠近がなくなったフラットな過去の残像だけがモノクロームに沈む舞台に現出する。絶妙な明るさと陰りの対比、配置である。
一応主人公が美雪であるだろうから、深雪の妹佳代(武田暁)と美雪の関係が大きな軸の一つになることは疑いない。簡単な説明としては、美雪にとって佳代はとても「恐ろしい」妹なのだ。恐ろしくて可愛い、いとおしい存在なのに何でもお姉ちゃんのものをほしがり奪い取る怖い存在。いや、奪い取るまでに姉は奪われること、あるいは奪い合いになってしまうことが怖いから、譲ってしまうという方が正確だろう。そういう関係におびえるという怖さが、顔色にでる。
「顔色の悪さ」をめぐる会話、その心配。まずは、深雪のアパートで寝ている須永(桝谷雄一郎)に対して、深雪が顔色悪いよと心配する。須永は無視するが次第に気になる。今度は妹が姉深雪の顔色の悪さを指摘する。手鏡がどちらも重要な小道具になる。一応須永は風邪である(須永は最後に妻に出会ってとりあえず元の鞘に落ち着くという具合に、俗世にまま漂っている存在として深い意味を与えられないように注意深く描かれている)。
深雪はどうだろうか。一つにはまだ先だが独り身故にくすんでゆく皮膚に潜む「老い」への恐怖がある。さらに妹に奪われていく女の「色」気のなさという点も考えられるだろう。世界史の採点という、繰り返されほとんど無意味に近い無益な学校労働が下手前の机で象徴されている。顔色の悪さとは、色褪せたいまの社会それ自身、そして、その社会に脱色された人びとという意味の「色」の悪さであろうとも思われる。
ラスト近く、妹佳代が私には顔がうつらないというリフレインがもう一つあり彼女の生気はすでにないことがわかるが、それまでの妹には「色」が充溢している。色の過剰が常に姉の男と結婚し、姉の愛人と心中しようとするのである。その象徴は、赤いセーターである。もちろん姉の赤ペンも赤いがそのポツン点る赤さは、迷ってしまった蛍のように空しい。それに、妹は姉のものをほしがることしかないので、奪ってしまったあとでは、ただただキャベツを切るだけで、自分の指をトントンと切る音が先走って、追いつかずに切断してしまう(切り落とされたのではないとしても、何だか見るのも怖いものとして自分の指がある意味ではそこに欠落がある)。
その切られた佳代の指を持っているのが、象徴的には同じ赤いセーターを着た高校生の真理であると飛躍して思った。無造作に、でも深読みしたくなるような誘いを誘発させるかのように、指が姉のゴミ箱に捨てられる。
5年後、その真理は24歳になって結婚するという。
指というと結婚指輪である。指輪はつながりの証しであり、切れることの恐れを逆に表している。希薄なつながり、切れてしまうおそれの恒常化。習慣的な行為。
たとえば、夕飯を食べることの繰り返しでつながりが日常化するはずなのに、一方ではキャベツの切られる音の暴走があり、他方ではホテルからの電話なのに聴いてしまう鉄橋を通る鉄道の音がある。
不思議さはそのままに、劇場によって引き起こされた余韻は、劇場をあとしにしてもなお、観客が自分で増幅し保存するものである。
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