Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Orientity&MINAMI Karin-1

vol.559.
9/12(日)
固有名詞と日記の関係=スタイルについて(日曜日アーツ観察のための長い枕。「尾籠な話」のエッセイつき)

充実感のある日曜日だった。
学会関西部会の例会を午前中にして、午後からはビールを少し飲みながら歌のライブ、そして、夕方にはコリアン系若手作家の美術展とそのパフォーマンスという流れだ。

さて(というのも唐突だが)、日記(日録、日乗・・)には覚え書き的な機能がある(防備録、忘れるための記録)。もちろん、さらに、自省のための余白だったりエッセイの試し書きだったりと、いろいろな機能もある(以下、これ自体が、エッセイ的な記述にも一部分なっていて、後半は、日記の体裁についてのスタイル研究にもなっている。いつもは2000字強を目安にしているので、枕が異常に長くなっていますが、2つに分けて配信します)。

覚え書きの場合、固有名詞を書いておくことは大切で、そのことは、ずいぶんと前、山形の旅館で合宿みたいにして泊まったときに、青森の立木祥一郎さんが固有名詞で話し合わないとアーツ(ひょっとしたらもっと具体的に映画についてだったかも知れない)について語ったことにならないと話したことを思い出す(・・と書くのも覚え書き機能ですね)。

いまさっき、「青森の立木祥一郎さん」と書いた。
ところが、これを「青森県立の新しい美術館を準備していてまたNPO法人harappaもしている(から)キュレーターでアートNPO関係者でもある立木祥一郎さん」と書くと、そこで立木さんについての覚え書き度がぐっと高まる。でも、記憶はいい加減で、NPO法人の名前が間違っているかも知れないし、さらに、なみおか映画祭の実行委員という肩書きを入れた方がいいかも知れないし、ひょっとしたら今年は忙しくて実行委員はしてないなどということもあるかも知れず、厳密に考えると固有名詞的に語るというのも気苦労はある。

あと、固有名詞を書くときに、人名の尊称をどうするのかというのもむずかしいことがある。立木祥一郎さんと書いたが、もし、彼が展覧会をキュレーションしていて、その展覧会のことについて書く場合、たとえば、奈良美智展とすれば、作家には尊称をつけないのが普通なので、奈良美智の作品をキュレーションした立木祥一郎はこのようにセレクションして展示した云々というように書くだろうと思う。

作家や役者について敬称をつけないのは、個人的に知り合いではなく、そこに作者(作品)としてあって、それについてコメントするからで、もし知り合いだったとしても、たとえば、美術展に作品を出している呉夏枝(在日コリアンである彼女の場合は、オ・ハジと書く方がいいかどうかという新たな課題もあるが)と書くだろうし、その彼女が忙しくしているので挨拶はしたがうちの企画を話すのははばかれるぐらいだったという話を書くとすると、「オさんはパフォーマンスの準備に南と北のギャラリーを幾度となく往復していて、ぼくは校庭のベンチに座ってその様子を見ながら、秋学期の基礎ゼミの進め方についてぼんやりと考えていた(それは、ニットキャップシアターのごまのはえさんに、例の件はどうなっているでしょうかと聞かれたからである)云々」と書くのだろう。

話は変わるが(閑話休題という方がエッセイぽいけど)、決まり文句とか、専門的なタームとかの意味を、うっかりと辞書をひかないままにみんながそのコンテクストで使うから自分も使っていて、それっておかしいよと言われて恥ずかしくなったり、そういう場面を指摘すべきかどうか迷ったりすることがきっと誰でもあると思う(エッセイ的な呼びかけ)。

ぼくも、イギリスで使われる「アームズ・レングスの法則(arm's length principle)」という意味はぼんやりとは知っていた(政府と芸術協議会など芸術団体の距離を一定に保たねばならないというもの。ただし、銀行法とかでは利害関係者間の取引規制だったりもするそうだ)。

が、恥ずかしいことにレングスをレッグズとずっと思っていて(つまり、腕と脚の複数形と思っていて=arms-legs)、手と足を伸ばした人間図がダビンチにあるけれど、その円形の範囲(アーツ界)内に政府が入らないことと強引に思っていた。それが大学内の研究会でばれて(「レッグス」ではなく「レッグズ」でしょと言ってしまったのだ)、とても英語力のなさに恥ずかしく思ったことがあった(そういえば、日記で長谷川孝治さんも少し前まで台風一過を、「台風一家」って思っていたと書いてたなあ)。

あるところで、「尾籠(びろう)な話」の使い方が、どうも違う方がいた(前にもその方から「尾籠な話ですが、いまどき一番でのNHKの出演料はいくらですか」と言われてびっくりしたが、このとき、お金の話はシモの話と同じという意味でその人は考えて使ったのかと思って黙って、3万円と答えた)。どうして、その文脈から「尾籠」な質問になるのか、どきりとしたのだ(スカトロジーは大好きなので、ある面期待してしまったということでもある)。

でも、その方は素直に、「尾籠」って、「失礼にあたる可能性のあること」という意味だと思っていたようだ(今日も予算を聞く枕として使っていたから)。それで、とっさにウンチとかトイレとかそういうシモの話のときに、予め断るときの用語だよと指摘してしまい、実は一緒にいた人たちのなかには、このことば自体を知らない人もいたようで、これは言った人だけにあとでこっそり伝えるべきだったと反省した。ただ、「尾籠」という言葉の語源が「をこ」ということで、それからすれば、「口にすることがはばかれる」という本来的意味では、ぼくの出演料とかの話はあながち間違っていないかもない。

ここで固有名詞に戻るのだが、こういうエッセイの場合、その方の固有名詞がそれほどには問題でもないので固有人名はあえて出さない(これを読めばその人は恥ずかしいとは思うだろうが、まあぼくも孝治さんも一緒に恥ずかしいことを書いて引き合いにしているので大丈夫だろう)ということになる。

つまりここでのテーマは“大人になってしまうと、なかなかに修正できない「恥ずかしい間違い」って一般的にあるよね〜それも教員とか権威筋(一応形式的には)になると逆に訂正してもらえないし、されると恥ずかしくてむっとしてしまいそうで怖いなあ〜”、というライトエッセイなのですね。


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