Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》Dance Artists meet Composers

vol.570.
10/27(水)
『ダンスが先?音楽が先?−振付家と作曲家の試み』京都芸術センター講堂

大学生協食堂では、夏に行われた学生たちのインターンシップの発表が、懇親会になってからもまだ続いていたが、どうしても京都クリエイターズミーティング4に行きたかったので最後だけ聴かずに京都芸術センターに向かう。2階の講堂、ぎっしりの人。それもそのはずあまりにも美味しいメニュー満載で、始まる前からどきどきする。

『ダンスが先?音楽が先?−振付家と作曲家の試み』19:36〜21:10ぐらい。公演後出演者によるアフタートークが始まる前に退席するために、最後の時刻をチェックし忘れた。3組のパフォーマンスである。そのどれもがもちろん興味深かった。

でも、一番しびれたのは何と言っても最後の組であった。というか、ぶっとんでしまって口を開けたまま見続け聴き続けたというのが正直のところ。
こちらの覚醒度というか興奮度というか(正反対の概念のはずなのだが)そのどちらの度合いも桁外れで、計測不可能にまで針が振れてしまい、おお、これからどうしよう・・というほどに、「希有で、愉快で、さっそうとした」コラボ。そのコラボレーションの神髄に触れていてかつ客席との一体感も抜群な、爆笑と驚きと共感に満ちたステージであった。

ラインアップは:
1. 砂連尾理+寺田みさこ×桜井圭介 「O[JAZ]Z」
2. TEN×港大尋 ゲスト出演=三林かおる(ダンス)、小川真由子(パーカッション) 「ill sounded ill counted」
3. 北村成美×巻上公一 「インダスヒュー」


全体のライティング・コラボレーター:岩村原太。四角い畳の間がまるくライティングされたり、しげやんと公ちゃんの激しく面白い動きを闇と音響で切断したり。特に強く照明を意識させるものではなかったが、もちろん様々な即興的動きを読みながらライティングを企画していたのだろうと想像する。

アフタートークを聞けばダンスが先にできたのか音楽が先にできたのか、どんな関係のコラボレーションかが当事者によって語られたのだろうが、ここではとりあえず、見た印象を簡単に記しておく。

はじまりの作品は、砂連尾理+寺田みさこのダンスが、映画とかお芝居のシーンみたいな見立てにおいて展開し、それに対して、映画音楽的に曲をつけていくという趣向が表面に出ている。「おジャズ」というのは、「おしゃみ」というような雰囲気なので、和風のジャズということだろうか。ひょっとしたら逆に作曲家の衝動が先で(あるいは音楽の種があって)、このようなふすまと畳のセットが考えられたのかも知れないが。

座布団がふたつ、おじさんによって乱暴に導入される。はじめ砂連尾さんとは気づかなかった。ちょっと刈り上げ風の古風な男性ぽい髪形になっていたから。ちゃぶ台も転がされる。

はじまりと終わり(の一つ前)は、同じシーン。寺田みさこが牛乳瓶を持ったまま寝ているシーン(ただ、はじめの牛乳瓶の中身は一杯入っていて終わりのそれは飲み干されている)。しかも行儀悪く片足をちゃぶ台にあげたまま。その様子を男はちゃぶ台で見てそっとちゃぶ台をはずす。宙に浮く片足、もちろん少し不自然な宙づり状態を経て、すとんと畳に落ちる。

断片の動き、すごい語りがあるとは知らずに、これをどうまとめるのかと思いつつ、見る。音楽はそんなに意識しない。あるムードを創っているのだろうが、どこかで聞いたことのあるような錯覚を創ることをめざしているのだろうかと思って聞いている。
圧巻は、牛乳屋の女性(かなり年配だろう)の台詞を砂連尾理が唐突に、でもそれはそれでまっすぐに語るシーン。2、3年に一人ぐらい、この牛乳屋さんが売りたくないと思うお客がいるというのだ。そのお客がいま目の前にいて話すシーン。

すると、すべての断片がそこで一度ワープしいままでとは違うものになっていく。‘ダンスが台詞を入れ、でもそれでダンスを説明にしてしまわないで、ダンスそのものを強化する仕方というのがあるのだ’とびっくりもしたし、感心もした。
断片としてのダンス要素がワープしてかき集められ狂いの一歩手前まで動いて走馬燈のように疾走する。

2番目の組のはじまりにおいて、音楽家二人(港大尋と小川真由子)が音を叩いて会話するように遊ぶところからあったせいもあり、音楽がとても全面に出たステージ。ダンスの方はすみっこで局部的に踊っていて、ストリートダンスの見せ方の練習という感じだった。沖縄とかいろいろな「くに」、場所性の強い音楽が呼び込まれ、遊ばれる。それとダンスはどう絡むのか、なかなかに奥深いテーマなので、挑戦中という感じのステージだろうと思う。

いろいろな語り音楽がコラージュされるという点では巻上公一の発弦楽器(中央アジアのどこかの楽器なのでしょうか)の弾き語りも同じ。浄瑠璃語りとか浪曲とかも思わせるし、もちろん彼の友だちがいっぱいいるモンゴルとかトゥバとかの歌も混交される。コラボレーションという意味では、もともと一人でいろいろな音楽とか声とか体が発する音とか楽器音とかを呼び寄せる巻上だから、すでに彼を通じてそれら同士をコラボレーションしているとも言える。

そこに北村成美が来る。というか、同じように二人が並ぶ。同じように二人が踊る。
まず、巻上公一の身軽さに脱帽した。そのキャラクターの特異さ、黒いハットに襟巻きに相好を崩す。直後のしげやんの脱衣、公一による声が引き金になって。
あとは息つく間のない。目撃したものを記憶個庫に保存するいとますらなく、ただただ、つぎつぎと展開される二人の姿を追っていた。

インドのお土産だという竹筒の楽器。振ると音が出る。シゲヤンのは太く公ちゃんのは細い。音づくりははじめからずっと公ちゃんが引率していた。が、先にシゲヤンがこの筒を鼻で吹くところがあり、これははっきりいって公ちゃんは負けていた。細いので鼻の穴一つで吹く必要もあり、むせていたりして、それでも、何だかその姿全部が完璧に構成されたようにつながっていくのが不思議だ。客席最前列のお客に向かって吹く筒とその先の息。

この竹筒での剣劇もあった。音が鳴ったり、しずかに無音だったり。この二人がそんなに一緒にやっていないはず(今回が初めてなのだろうか、初めてだとするとこんなにぴったしのカップルをいままで出会わさなかったこと自体がびっくりだ)だと思いつつ、どうしてもそれが信じられなかった。

ここではもう踊りと音楽の関係はどっちが先とかを云々する前後関係の段階ではない。
音楽とダンスの間に二人ははまりこんで、そのどちらをも越えている。両者はその役割さえステージ上ではなくなっていて、両者が真剣にふざけ、戯れのさなかに真理をめざしている。そんな二人がまじっている快感が心地よいのである。

造語を恐れないならば、芸術や技術、呪術や武術などを含み越えるもの、「真術」とでも言い表せそうなもの、その影を見たのではなかったか、帰りシャッターの閉まっている錦通りを歩きながらそんなことすら思った。いやそんなことよりも、表現というのは、演奏とか公演とかを突き抜けて、生き方そのものでしかない。そんな単純で、でもつい忘れがちなことを、強く、強く、二人に教えてもらったのだろうと思う。


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