Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》cockpit 1-3

vol.564.
10/3(日)
劇団衛星『劇団衛星のコックピット、コンセプト1〜3』第五長谷ビルB1

劇団衛星『劇団衛星のコックピット、コンセプト1〜3』第五長谷ビルB1。作・演出:蓮行。ジュンク堂でNPOジャーナル(加藤哲夫さんが指定管理者制度について書いていると聞いた)やシアターアーツ(坂手洋二さんの連載を見たかった〜前の号は立ち読みしてしまった)を探してみたがなく、残念だなあと思いつつ地下鉄の入り口へと向かう。今回の公演のロビーはもと和食屋さんなので畳だったそうで、そこを透明なシートが養生に使われ、ふわふわとした浮遊感が乗船前の私たち観客の状態をうまく演出している。

コンセプト1が京都府の演劇コンクールの対象なので、コンセプト3は見る予定だけれど、だったら、コンセプト2も見ようと、今日はコックピット尽くしになった。以下、まずコンクールがらみで200〜300字でコメントを書く必要があるので、その原稿からはじめることにする(が、10本ほど見て最終的に提出するときに校正する予定)。
・・・・
手作りのコックピット型極小劇場で芝居をする。ガンダム世代の早すぎる郷愁?初演時、今日的課題とは無関係のお気楽な娯楽作品かと思った。導入からテーマパーク的客入れで、いまは終わったらロトクジまであるサービス。
ところが、軽いノリと思いつき的瞬発芸に惑わされているうちに、コックピット劇場を移動させ持続することを原動力として、あれよあれよという間に、コンセプト1はその鏡としてのコックピット2を生み、さらに光の杜事件の前史を明らかにするコンセプト3までその物語を紡いでしまった。コックピットに座っていると、ここから劇団衛星は世界を見、時代に揺すぶられて、いまに処方する生き様を模索しているのだと感じ入る。
・・・・
実際、コックピットのコンセプト1を単体でその戯曲や演出、演技そのものに即して批評するのは難しいのではないだろうかと思う。なぜか。それは代表の蓮行が書いているように「もう、演劇が演劇作品として完結して存在できる時代はとっくに終わっている」からだ(当日パンフより)。なおこのパンフは、ぎりぎりで作られたことを証明するように、「共催:京都橘女子大学文化政策学部小暮研究所」となっていたり、staffサポートに入っているうちの2回生の名前が「尾上郁子」(本当は侑子)になっていたりしている。

コックピットをこのようなビルの地下に借りること(もともとは違う公共施設を想定したものだったどうだが)、そのコックピットに別の劇団とかユニットとか詩人とか映画とかダンスとかクラウンとかを登場させることなどを含めて考えてやっと成立するかも知れないのが演劇というジャンルの何かだと彼らは思っているのだろう。

ところが、ぼくはいやいや結構中身も面白いではないかと思ったのだ。とりわけ、前回見てうーん、ちょっと不完全燃焼だったなあと密かに思ったコンセプト2(九連宝燈〜中華思想愛好家の集い篇)が、今回コンセプト1を見た直後だということもあり、その合わせ鏡としてじつによく分かるようになったせいもあるけれど、ずいぶんとテンポよく面白さが倍増したように感じたのである。

どちらも一時間半弱ぐらいの作品で、もしコンセプト2を先に見たときにそうなるかどうかがちょっと自信はないが、少なくともコンセプト1でちょっとどうなっているのだろう?という疑問をコンセプト2では7割ぐらい解消してくれて、でもあとの3割はまだまだあとのお楽しみだよ、というところがにくいし、新たに2割ぐらいまた新しい謎などを生んだりもしてくれるからうまいのである。

それでもコンセプト1ではじつにまじめに機械操作と対峙している同じ役者が、コンセプト2ではがらりと不真面目にやっていて(「バブル以降の若年層世代の醜態を徹底的に悪趣味に提示する社会派不条理劇」と自己解説されているのだが)、その対比で、両者がじつにうまく凸凹関係になっている。そして、まじめに作った装甲魔神ヘラクレス(すごい発見故にアメリカや中国、そして国連までに追いかけられるという不幸を元山〜ファック・ジャパン〜らは味わうのだ)のパクリにすぎない重機巨獣(リス型)「御遣使(みつかい)」が、ヘラクレスと戦っているうちに、立場は逆転して、環境を守る正義の味方になってしまう。

表面的には軽薄さあふれるミカティというアイドルキャスターがその逆転の心情を伝搬するのだが、じつは陰謀がそこにはうずまいていて、国土省の失敗隠しやら、中国帝国による世界制覇やら、それに便乗した国会議員(西川のりお映像出演)やらが出没する。あたかも、イラクで人質として捕まえられた活動家やジャーナリストが、とつぜん自衛隊派遣を正統化したい政府によりプッシュされて匿名の大衆による「自己責任」というバッシングに遭うその不意打ち感に似ている。

いま日本に蔓延している主語のあいまいな憎悪感が正体なのだろう。なにも自分には害を与えていないメディア上に登場した人物を、それみたことかと無節操に2ちゃんねるなどの匿名装置で打ちまくることによって、自分の不安を癒す憎悪や嫌悪(ヘイトとかフォビアとか言われる。最近何とうちらのちんどん隊の京都新聞記事を2ちゃんねるの参加者がかってにあれこれ言っていたのを見て他人事ではないと思った)。この憎悪や嫌悪の空気そのものが、英雄から悪者への突然の逆転を後押しする。そんな状況を実にさりげなく反映していることを、この作品から深読みできるのは、まさしく一挙上演の醍醐味だろう。

コンセプト3は、1時間ほどの公演で、劇中劇の構造を持ちつつ、ただそれでは終わらないよ、だって次の続くコンセプト1と2があるから、というでき方で、大半は会社の上司に企画のプレゼンテーションをするお芝居をするという、括弧付き「演劇」による演劇的仕掛けになっている。嘘から出たマコト(もちろん真実は一部分)を残して、まだまだコックピットがつぶれなかったら4本目もできるに決まっているよと予感させるものだった(そしてコンセプト4ができたときは、コンセプト3はよりパワーアップしたものになり、全体はより大河ドラマの風情を漂わせているのかも知れない)。

それにしても、3本目の公演というのは、役者として出ずっぱりのファック・ジャパン、岡嶋秀昭、金田典子、紙本明子、黒木陽子、そして蓮行のみんなはどんなに大変だろうと感じる。見ているぼくもコックピットに同席して、最後の方はちょっと疲れが出てきたので、よけいそう思う。


こぐれ日記」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室