Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》VOZVRACHCHENIE

vol.589.
1/8(土)
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督『父、帰る』京都みなみ会館

いい映画だと直感するのは、冒頭の数秒であることが多い。この映画『父、帰る』(2003年、111分、ロシア)もまさしくそうだった。そしてそれは正しかった。ただ、最後の白黒写真たちはぼくには不要だと思われる。寂しい景色ですーっと終わってくれたら最高の映画だったのに・・アンドレイ・ズビャギンツェフ監督、1964年、シベリアのノヴォシビルスク生まれ、俳優出身でロシアでは映画の専門的教育を受けないで監督になるというのはレアケースだそうだ。

京都みなみ会館。20分ほど余裕を持って行くとすでにロビーには人の群れ、熱気がこもっている、ロシア人もいて、華やぐ期待感。午前中の上映なので、がらがらだろうと見くびって思っていたのでびっくり。それもそのはず、初日であり(昨日の夕刊に照会文も出ていたようだ)、ズビャギンツェフ監督は新人なのに金獅子賞(03年ヴェネチア国際映画祭グランプリ)を取った期待の監督だから。

さらに、ここでは本当にないことらしいのだが、外国人監督が映写後に挨拶に立つ(実際は、質問に答える形だったが、質問は絶えずぼくの前の人も手を挙げていたが時間切れ〜次の上映があるから〜となった)。

先日見た『スーパーサイズ・ミー』とは対極的に静かなドラマだったけれど、これもまた、きわめて「誠実な映画」だと思った。家族という関係に誠実に向かい合っていく。大人である監督が子ども時代を思い出して作ったのではなく、子どもの不可解さを子ども自身が戸惑いながら探求する姿として編集した寡黙な映画である。

まず言えるのは、ひたすらイワンとその兄の視点である。父は戸惑っているが内面を告白しない。父の妻、イワンの母はもっとそうだ。父を糾弾したり、もう行かないでと懇願したりしない。さらにイワンの祖母はただ食卓にいることしか表面に出さない。ただ、イエス・キリスト的図像を頻繁に取る父という観点からは、イワンの祖母は、聖母マリアとなる。

兄は徐々に父の側に立っていく。薄れていく子ども(頑固で力づく一方の父を大人モデルとしての社会化の道筋)。でも、イワンにはその兄の子ども部分につながり、兄の父親的強さに甘える。『大人は分かってくれない』にある子どもの視点だなと思った。あるいは、ジョバンニ(銀河鉄道の夜)の父親とラッコのことを冒頭、連想した。きっと、北の海と関係するに違いない。水に溺れるカンパネルラとラストシーンの父との関係までは予想がつかなかったが。

そのことを通じて、不可解な存在としての父と息子の関係が、父の不在、非在という始まりと終わりの円環のなかで浮かび上がり、高まる。不在、非在の間に「帰還」(原題)がある。帰還があることで、父がいないという同じ現象も、同じ場所における回帰的円環構造ではなく、螺旋となっていく。不在と帰還と非在に時間と経験が標(しる)されるのだ。そして、息子への継承、とりわけ長男アンドレイが父の態度をそっくり受けついでいく。生きづらい無口で粗暴な男の存在を。

モノクロームでないのに色が極度に少ない海(あるいは茫洋とした湖か大きな沼地)、それが波立つ景色の深度。そのあとに続く廃墟みたいな建物でのサッカー遊び。弟のイワンはグズであったために仲間に入れてもらえない。兄アンドレイも内心かばいたく思っているが仲間の手前冷たい。その建物の汚れ具合にぐっとくる。只者ではない。切り取られた構図。

淡々と時間を追い(1週間のなかのこと〜冒頭とエピローグのみが違う形であるだけ)、奇を衒うことをまったくしないで、しかも表面的ではなく、対象と向き合っている。
謎を残していることは事実だが、それはそんなに重要ではない。何を隠しているかということではない。どこに行っていたかということでもない。

大切なのは、どうしてこのときに家族の元に帰ってきたのか、どうして島に息子たちを連れてきたのか。息子たちは不在であった父(とされる男)に、どうして向かうのか、反発するのか。息子たちは何を学ぶのか。そして、何に苦しむのか。何が残されたのか。届かなかったものは何か。
男の妻であり二人の息子の母である女は一夜をどういう気持ちで過ごしたのか。そして、息子と父の旅行に何を祈ったのか。男の母(女の母みたいに妻と母は似ていたが)は、何を思ったのか。

難しげな映画みたいなレビューになったが、そんなでもない。タルコフスキーなどよりずっと親しめる。小枝をタイヤに敷いて車を動かす智恵を父親から授かった兄が、こんどは父の遺体を運ぶことに小枝を使う。弟に刃物を取ってきて、と言ったときぼくは誤解してしまったが、これは鮮やかなシーンだと思った。分かりやすすぎると言う人もいるかも知れない。原題の「帰還」とは、イエスの復活とも関係があるのだろうと思ったのは、はじめにベッドで横たわる父親を足の方から眺める映像だった。これが、後半(塔からの墜落とラストシーン)に、二つの同じアングルからの父親の姿に繋がる。

監督の話で面白かったのは、原題は「帰郷」であり、それは他国ではみなそれに忠実だったのに、日本の配給会社だけ「父」をつけたことが「本意でない」という回答である。「父帰る」って確かに日本では菊池寛などが連想されてしまって(監督はそんなことは関係ないと思うけれど)、どうしても人情話的になることが気持ち悪いのは確かである。それにしても監督が嫌がってもつける邦題って何だろうと思う。きっと、映画会社が強かった時代、作者である監督も被雇用者であったという関係の名残なのだろう。

あと、好きな監督としてズビャギンツェフ(この名前もまた、覚えられない大事な監督名の一人となっていくだろうなあ)が上げていた監督は:オタール・イオセリアーニ、アンドレイ・タルコフスキー、アレクセイ・ゲルマン。これがロシア語で見れる監督たち。イオセリアーニ監督映画は見たいと思っていて観ていない。月曜日に乾杯だったっけ。ゲルマン監督というのは、確かスターリンを描いていたね。

あと、ミケランジェロ・アントニオーニとロベール・ブレッソンだという。アントニオーニ映画は大学時代、もっとも好きだったなあと思い出す。特に「さすらい」と「情事」。アテネ・フランスで数回見たな。


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